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〈沈黙〉の自伝的民族誌 の商品レビュー

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2024/02/25

オートエスノグラフィーでアイヌ民族を取り上げたということでは、初めてと書かれていた。博士論文を一般向けに書き直したものである。これに続いて、アイヌ民族のオートエスノだけではなく、琉球人、奄美島民、在日韓国人、中国帰国、海外からの移民についてのオートエスノグラフィーが増えていくであ...

オートエスノグラフィーでアイヌ民族を取り上げたということでは、初めてと書かれていた。博士論文を一般向けに書き直したものである。これに続いて、アイヌ民族のオートエスノだけではなく、琉球人、奄美島民、在日韓国人、中国帰国、海外からの移民についてのオートエスノグラフィーが増えていくであろう。北海道大学でのアイヌ民族のエスノの博士論文であるが、鹿児島大学、九州大学、京都大学でもオートエスでの博士論文が書かれることと思われる。修士論文としても参考になるであろう。

Posted byブクログ

2023/05/01

 曽祖母 つる(1904-?) アイヌ   アイヌ語と日本語、シヌエ(入墨)有  祖母  ツヤコ(1925-1999)  アイヌ文化から離れる、和人と結婚  母   イツ子(1952-)  著者  真衣(1982-) 上掲は、第4章の家族史で紹介される著...

 曽祖母 つる(1904-?) アイヌ   アイヌ語と日本語、シヌエ(入墨)有  祖母  ツヤコ(1925-1999)  アイヌ文化から離れる、和人と結婚  母   イツ子(1952-)  著者  真衣(1982-) 上掲は、第4章の家族史で紹介される著者の家族4世代の人たちである。  自らの祖母がアイヌであり、自らがアイヌの出自であることを、著者は12歳のときに母から教えられる。家族や親戚をアイヌ民族と思っていなかった著者は、そのとき、アイヌという言葉が暗い響きを持っているように感じた、と記す。   アイヌの出自といっても、外見、名字、その文化的継承や経験を何ら持っていないことに対する戸惑い。  さらにアイヌの出自であると告げたときに、“あなたがアイヌでも気にしない“と言われたことへの違和感。「〜でも気にしない」には、「〜ではない」立場の話者が意識せずに発するものだが、それは「〜でも」の前に入るものが劣位にあることを前景化してしまう。  自分を傷つけるつもりなどない人たちからのこうした対応に、著者は、自分にまつわる歴史と状況を知り、喪失感を感じずに生きる方法を見つけたいと、文化人類学の道に進む。  しかし、「私自身は自分のことをアイヌと思えない」という著者の語りは、「アイデンティティが混乱している」、「アイヌであることを否定している」などと回収されてしまう。その背景にあるのは、強固なアイヌ/和人の分類。  苦しい経験、様々な人たちとの出会いを経て、著者は「サイレント・アイヌ」という概念に到達する。ある過渡的な状況である異例なるもの(アノマリー)。社会において自己を分類できず名を持たないという意味において透明人間となり、語りたくても語ることができない人びと。それは、出自を隠しながら生きる人びととは異なる。「私」の痛みとは、私たち家族の歴史が退けられ、私の痛みや語りや存在が、一方的に違うものへと変換されることへの痛みである(180頁)。透明人間は、透明だから見えず、語り始めてもその声は聴こえない。  「私」の痛みは、北海道のポストコロニアルな喪失の歴史の結果である。その認識に至った著者は、語り始めた、それが本書である。  本書は博士学位論文が基になっていて、幾つかの理論的枠組みに依拠している。ポストコロニアル論、スピヴァクのサバルタン概念やメアリ・ダグラスのアノマリー概念、ヴィクター・ターナーのコミュニタス論。これらの理論が著者の立論とうまく噛み合っているかどうかは良く分からないが、こうした学問的蓄積があったからこそ、ある意味では非常に私的な著者の感じた痛みが、普遍的なものに可視化できたのだと思えた。  

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