鬼才 の商品レビュー
ひとつひとつのエピソードが面白かった。名前の十一は、建国記念日の生まれだから。ドストエフスキーの小説はそんなに良いのか?また、新潮社の来歴も知れて興味深かった。同時代のほかの編集人との比較も知りたい。
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このような「怪人」ともいう人は少なくなったように思う。冷静な面もありつつ女性問題などでは動揺しているのが分かるのが人として面白い。
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「2016年の週刊文春」が面白かったので、それなら新潮もと思い、「天皇」齋藤十一の評伝の本書を読んでみた。流石、森功だけあり読ませてくれるが、対象本人がシャイで寡黙故か、残している言葉が少なすぎて人物像の輪郭がぼやけたままで、伝説の編集者といわれてもどこが凄いのかが全く言葉として...
「2016年の週刊文春」が面白かったので、それなら新潮もと思い、「天皇」齋藤十一の評伝の本書を読んでみた。流石、森功だけあり読ませてくれるが、対象本人がシャイで寡黙故か、残している言葉が少なすぎて人物像の輪郭がぼやけたままで、伝説の編集者といわれてもどこが凄いのかが全く言葉として伝わってこない。小林秀雄や山崎豊子らとの逸話も面白いとは思ったが、だからといって齋藤十一が魅力的かと言われたら...。出版の世界での嗅覚はスゴイんだろうがあまりにも感覚的すぎて難しい。
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斎藤さん自体については、あまり自分語りも無く、周りの方や作家達との関わりについても深く掘り下げた内容ではなかった。 ただ、週刊誌の立ち上げ時期の時代背景だけでもそれなりに興味をそそる話だった。
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この春、惑星直列のようにタイミングが合った出版社内幕シリーズ「2016年の週刊文春」「出版と権力」と読み繋ぎ、そして最後が「鬼才」でした。これで文藝春秋社、講談社、新潮社のビルの中に立て続けに忍び込んだことになります。文藝春秋については今に近い時代ですし、講談社については創業から...
この春、惑星直列のようにタイミングが合った出版社内幕シリーズ「2016年の週刊文春」「出版と権力」と読み繋ぎ、そして最後が「鬼才」でした。これで文藝春秋社、講談社、新潮社のビルの中に立て続けに忍び込んだことになります。文藝春秋については今に近い時代ですし、講談社については創業からの長い歴史ですし、本書については戦後から高度経済成長時代の昭和史であるように、タイムスパンは異なりますが、そのいずれも今は存在が揺らいでいる「中間層」という人々の欲望に向き合った編集者、出版人の物語なのであります。「鬼才」斎藤十一については「週刊新潮」「フォーカス」を創った人ということは知っていました。「黒い事件簿」のような新聞社系の週刊誌では難しい企画や「キミら人殺しのツラを見たくないか」という写真週刊誌というジャンルを創り上げた言葉(これはどうも本当は言っていないらしいですが…)にイメージされるふてぶてしさだけではなく、実際に編集長やったのは「新潮」だけであり、そして「芸術新潮」の創刊を行い文学、音楽、絵画についても非常にデリケートな感性を持っていた複雑な人格を持っていたことを知りました。役職ではなく存在感で新潮社に君臨し、日本の作家たちを睥睨し、あまたの書き手に育成した、まさに鬼才。その見つめるところは人の心の複雑性なのでした。本書に積み重ねられるエピソードひとつひとつが人間の業みたいなことの証左のようです。先日、第27回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞の大賞が発表され、文春砲の黒川検事長の賭けマージャンについてのスクープが受賞していましたが、そもそもの雑誌ジャーナリズムは、斎藤十一を起点とするのですね。
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昨年12月30日に上梓された『2016年の週刊文春』。これに遅れること16日、書店の平台に両書並ぶ。こちらでも〈文春vs新潮〉のライバル対決。 文春と新潮の社風について『2016年の週刊文春』にはこんな記載がある。出版系週刊誌で、発売日も同じ毎週木曜日、似たような誌面ゆえ、似た...
昨年12月30日に上梓された『2016年の週刊文春』。これに遅れること16日、書店の平台に両書並ぶ。こちらでも〈文春vs新潮〉のライバル対決。 文春と新潮の社風について『2016年の週刊文春』にはこんな記載がある。出版系週刊誌で、発売日も同じ毎週木曜日、似たような誌面ゆえ、似たような編集スタイルと見られがちであるが、両社の社風はまったく異なる。文春は社員持ち株制度で社長は社員の互選で決まり、方や新潮はオーナー会社。人事異動が激しい文春に対し、新潮は入社以来ずっと週刊新潮という人もざら。文春は学園祭準備のように、遅くまでワイワイ議論しながらの紙面作り。服装も自由な文春に対し、新潮は全員ネクタイ着用のプロ集団。各々が黙々と仕事をこなし編集部は静寂そのもの。 その雑誌編集スタイルを確立したのが、業界雀が名付けた『新潮社の天皇』こと、鬼才縦横の編集者 齊藤十一。1935年21歳の時、新潮社創業者の孫の家庭教師を経て新潮社に入社。以来60年、雑誌『新潮』『芸術新潮』『週刊新潮』『フォーカス』『新潮45』を主戦場に類いまれな天分を発揮。〈編集者は黒子であれ〉の立場を踏まえ、表舞台には姿を一切見せず、伝説の編集者として86歳の生涯を終える。 とはいえ、編集長を務めたのは『新潮』の20有余年。にもかかわらず各編集長を差し置き、長年君臨できたのは超難関を突破し入社した極めて優秀な編集者が束になってかかっても太刀打ちできない、文学・哲学・美術・クラシック音楽…等の深い教養と博覧強記、そこにジャーナリストしての独特の嗅覚と目利き。 毎週金曜日に行われる週刊新潮編集会議は、『御前会議』と呼ばれ、常務と編集長を前に齊藤は編集部員の書いた20案ほどの企画案を一瞥し、ひとりで決めていく。『俺が頭で、キミたちは足だ!だからキミたちは取材しまくれ!』と怒鳴りながら提示。 それともうひとつ齊藤の功績は、今では週刊誌の記事では当たり前となった〈取材で得たコメントとコメントに繋ぎ目を埋めていく文章がファクトではなく、疑惑を抱かせるような記述筆致〉は週刊新潮が編み出す。 また本書には錚々たる作家との交流も活写されている。山崎豊子はベストセラー作家になっても、齊藤と面会する度に緊張の面持ちで、『私は、山崎豊子と申します』と初対面のように 挨拶をし、五味康祐の新作に対しては『貴作拝見、没』とだけ記した葉書を送りつけ、井伏鱒二には『姪の結婚』という連載の途中で『黒い雨』というタイトルに変えさせる。 そのプロデュースっぷり、目利きぶりはただただ瞠目するばかりで、 『知の巨人』というフレーズが立ち昇る。ただ大変な教養人でありながら、自身を『俗物』と称した。『小説家だ、ジャーナリストだ、編集者だ…などと気取ったところで、所詮愚か者のバカである。大衆の一人にすぎないことを自覚し、その視点でものを書かなければならないのだ』という確たる信念を抱いていた。 極め付きは齊藤の最期のエピソード。『21世紀なんて見たくもない』と常々語っており、晩年インタビューに応じ、2000年12月23日に放映されたTBS『ブロードキャスター』を観ながら、『老醜だな、もう死ぬべきだ』と呟き、その翌朝、いつものようにお茶を飲んだ後に意識を失い、21世紀を見ることなく4日後に亡くなる。鳥肌立つエピソード。 齊藤十一の知性は人間の業に根差す『痴性』と『恥性』を嗅ぎ分け、〈人間の正体〉をペンを持って暴いた。 知性のドレスダウン、型があっての『型破り』… そんな言葉が行き交い、鬼才の半生を読み終えた。
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2016年の週刊文春を読んだあとで気になり、読んでみた。時系列でいろいろと知ることができ、参考になった。
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新潮社の社風、そして新潮ジャーナリズムの源泉がわかっておもしろい。 それにしても、齋藤十一とその薫陶を受けた者たちが去った後、 新潮社が空洞化したとの指摘は重い。 それだけ存在が大きかったのだろうが、属人化してしまうと、 抜けた穴を埋めることは難しくなる。
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「2016年の文春」と同時に読んでみました。森功さんの著作ということで期待しつつ。 ガラガラポンになった戦後の体制を、結果を出し続けながら二十世紀末まで支えた人の評伝。 読んだ本はすぐ人にあげ、著作も残してない。世間からは影に回ることで、よりパワーが増す昭和のフィクサー、出版...
「2016年の文春」と同時に読んでみました。森功さんの著作ということで期待しつつ。 ガラガラポンになった戦後の体制を、結果を出し続けながら二十世紀末まで支えた人の評伝。 読んだ本はすぐ人にあげ、著作も残してない。世間からは影に回ることで、よりパワーが増す昭和のフィクサー、出版界編的な感じがしました。 また、このコロナや金余り時代に起こってることが、ちょうど80-90年代ににてると思いました。人々は邪悪なモノを求め、性、権力、カネに群がることが顕在化。 いまは週刊新潮でなく、文春砲とネットですが。。 やはり、斎藤十一氏が言うように、いつになっても人間なんて俗物に過ぎないでしょう。。
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