パリ・左岸 深夜の客 の商品レビュー
『改めて撮影をお願いすると、こんな言葉が返ってきた。「今はダメ、Je suis seule(今、とっても孤独なの)だから」』 偶然に見かけた一葉に惹かれて初沢克利の写真集を手に取る。パリ、モンマルトルのカフェで主に七十年代に撮られた写真を集めたもの、と写真家の説明がある。写真家...
『改めて撮影をお願いすると、こんな言葉が返ってきた。「今はダメ、Je suis seule(今、とっても孤独なの)だから」』 偶然に見かけた一葉に惹かれて初沢克利の写真集を手に取る。パリ、モンマルトルのカフェで主に七十年代に撮られた写真を集めたもの、と写真家の説明がある。写真家は、被写体と鑑賞者の間には無言の対話が成立する筈、と説くが、秘かに撮られた顔が訴えるのは恐ろしいまでの孤独。 気怠そうにレンズを見つめる目。レンズに気付かず今に没頭する顔。独り座る人、向き合って座る二人。市井の人々が写る一方で、著名な人々(例えばフジコ・ヘミングウェイは眉根に皺を作りながら煙草を吸っているが、レンズに向かわない視線が意味するのはどこまでも頑なな拒絶)の私人としての顔も神経質に切り取られる。写真には様々な人々が写し撮られているけれど、レンズを通して問いかけている様子はない。それでも確かに写真家が言うように、被写体は無言で語り掛けて来る。"Je suis seule"、と。 『それに、ドアノーやエルスケンといった写真家が出会い、心惹かれて撮っていたパリはもうすでに存在していなかった。小津安二郎の映画の中の東京がないのと同じように』 街は変わってしまった、と慣用句のように表現する時、郷愁を込めて語る人が具体的な物体の変化を必ずしも指しているとは限らない。むしろ大きく変わってしまったのは同じ街を見つめる側の身体であり街から放たれる身体的感覚を受け止める脳の反応だろう。小津安二郎の映画の中の東京が放った光を今の東京にも見い出し得る人はいるだろうし、映画の中の時間と同時代の人の中にでさえその風景を見慣れぬものと受け取った人は居たに違いない。それは時間経過で失われたのではなくて、そもそも小津安二郎が映画の中に閉じ込めた形でしか存在しないのだ。同様に、初沢克利の写し撮ったパリもまた、その写真の中にしか、つまり写真家の身体が捉まえた形でしか存在しない。よしんば其処にドアノーの切り取ろうとしたパリと同様の雰囲気が写っていたとしても、それは飽くまで初沢克利がフィルムに投影した自身のパリの反影に過ぎない。 一つ残念なのは、構図の中心に物語の焦点があるのに、見開きの写真が多いこと。もちろん本を傷めつけるくらいに開けばいいのではあるけれど。
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