みみずのたわごと の商品レビュー
徳川慶喜家3代徳川慶光氏の妻和子氏(大正6年7月31日 - 平成15年5月29日没)の手記。 和子氏は会津松平家の生まれで最後の藩主容保孫にあたる。徳川家に嫁いだのは昭和13年、20歳の時。昭和61年、もう70歳になろうという時、頭の中にしまいこんでいた古い思い出を書き留めよう...
徳川慶喜家3代徳川慶光氏の妻和子氏(大正6年7月31日 - 平成15年5月29日没)の手記。 和子氏は会津松平家の生まれで最後の藩主容保孫にあたる。徳川家に嫁いだのは昭和13年、20歳の時。昭和61年、もう70歳になろうという時、頭の中にしまいこんでいた古い思い出を書き留めようと書きだした、とある。 生まれ育ったのは小石川区六天町。夫となる慶喜家も同じ六天町にある。本書には写真がたくさん載っているが、明治40年に慶喜が自宅から撮った松平家の写真が載っている。大きい木の木立の向こうに松平家の屋根が連なるのが見える。容保もこの地で亡くなった。 和子氏は戦前の華族のゆったりと余裕のある暮らしの中で親族に囲まれおだやかに育っているんだなあという感じだ。 戦前松平家には会津鶴ヶ城の周りに田圃を持っていて、それは小作人に任せてあり、そのおいしいお米を食べて育って、お米の値段もわからない”バカ”ができてしまった、などと書いてある。 また夏休みなどは墓参りのため会津の御薬園に滞在すると、旧臣たちが集まってくる。別荘番の間瀬さんは普段は畑仕事、冬は蓮根堀りだが、出かけるとなると羽織袴にカンカン帽、白扇片手に威儀を正し、遊びに行くと「お姫様がきたぞ~」とお婆さんが出てくる。このお婆さんは戊辰戦争ではお城に籠城した照姫様のもとで負傷者の介護をした。戦争と言えば(会津では)戊辰戦争を指すのだ、とある。(御薬園は現在国指定名勝になっている。・・まさに歴史を生きている) 書いてあるのは結婚までの、会津松平家、小石川区六天町での暮らし。婚家のことは怖い伯母様方は全滅したものの、姉妹は元気であるから、嫁の立場では良い話だとしても、私の毒舌が走り出すと止まらなくなるからやめておきましょうとある。 後半は和子氏の長女の子、孫である山岸美喜氏の補足文。慶朝氏とは叔父、姪の関係で、美喜氏が母の実家に遊びに行く、という時は戦後住んだ町田の住宅なのだとあった。2017年に慶朝氏も亡くなり慶喜家は絶家となりました、とある。慶喜家の資料は美喜氏に託すとの慶朝氏の遺言。検索によれば慶朝氏は男子2名女子1名があり離婚しているようだが、あえて慶朝氏は自分の代で終わりにしたようだ。この本では一切慶朝氏の子供のことには触れられていない。 慶喜家の孫の世代の女性全員が本を書いた。 「菊と葵の物語」高松宮妃喜久子著 「みみずのたわごと」徳川和子著 「徳川慶喜家の子ども部屋」榊原喜佐子著 「徳川おてんば姫」井出久美子著 曾孫 「徳川慶喜家にようこそ」徳川慶朝著 ※会津松平家 9代容保:最後の藩主→10代喜徳(養子・水戸徳川斉昭17男)→11代容大(容保長男)→12代保男(容保7男)・・保康の4女が和子氏(大正6年7月31日 - 平成15年5月29日) キララ社 http://tokyokirara.com/information/2246/ まいどなニュース2020.11.28 美喜氏にインタビュー https://maidonanews.jp/article/13967428 2020.11.30第1版第1刷 購入
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