ディスタンクシオン 普及版(Ⅱ) の商品レビュー
「日本における「対応分析」受容の現状を踏まえて、 EDA(探索的データ解析)の中に対応分析を位置付け、 新たなデータ解析のアプローチを実現する」 藤本一男 https://tsuda.repo.nii.ac.jp/records/345 「1.2 ブルデューの「ディスタンクシオン...
「日本における「対応分析」受容の現状を踏まえて、 EDA(探索的データ解析)の中に対応分析を位置付け、 新たなデータ解析のアプローチを実現する」 藤本一男 https://tsuda.repo.nii.ac.jp/records/345 「1.2 ブルデューの「ディスタンクシオン」の翻訳での対応分析をめぐった混乱 社会学と対応分析の関係が語られる時、ピエール・ブルデューと彼による「変数の社会学」批判が引き合いにだされる。それは、時に、次のような挑発的なフレーズとともに参照される。 「私は対応分析をよく用いますが、それは対応分析が関係論的な手続きであり、私にとっては社会的現実を構成するものを十全にあらわす哲学だからです。それは、関係論的に思考する手続きであり、私が界概念とともに試みていることです。(Lebaron 2010:102、磯 2020:130)」 ここに表現されている多重対応分析への注目 2)は、必ずしも理解されてこなかった。確かに、『ディスタンクシオン』はブルデューの基本文献なのだが、そこでの計量手法、つまり対応分析と彼の社会学概念が切断されているからである。 それは、ブルデューが用いた計量分析の手法(対応分析)が、「照応性の分析」と訳されていることに加えて、対応分析の基本的な概念、その意味では、ブルデューが「界」の概念と対応させている多重対応分析の重要概念である「慣性」「因子」の翻訳で失敗している。 対応分析において「慣性」とは伝統的統計学でいうところの「分散」であり、訳註で説明されるような「比喩」などではない 3)。 さらに原文で「factorielle」とあるものが、すべて「因子」と翻訳されているが、これは「座標軸(もしくは主軸)」と訳されるべきものである。第 5 章の注の英訳は「This means that the first factor in the factorial analysis corresponds to the second dimension of the social space and the second factor to the third dimension.」となっている(Oxford 版 p580 の(6)、Routlege 版では p574 の 8)。 日本語訳では、「(8)このことは、因子分析の第一因子が社会空間の第二次元に、第二因子が第三次元にそれぞれ対応しているということを意味している」となっている。 原文は、以下の通りである。 「8. – Cela signifie que le premier facteur de l’ analyse factorielle correspond à la deuxième dimension de l’espace social et le second à la troisième.」 つまり、日本語で「因子分析」とされている部分は、「l’analyse factorielle」であって、社会学や心理学で多用される(探索的)因子分析ではないのである 4)。」 「4) こうした理解のねじれによって、ブルデューが用いた計量的手法が「因子分析」である、という誤解、混乱が生じた可能性もある。宮島・藤田 1991 の第 8 章は、日本での調査データに対して因子分析をおこなってブルデューの展開として展開している。その分析を結果をうけるかたちで執筆された『文化的再生産の社会学』の初版(1994)はいざしらず、2017 に刊行された増補版でも分析方法についてはそのままである(宮島・藤田 1991, 宮島 2017)。」
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僕には、書かれていることの全てを手にとるように理解することはできなかった。悲しいかな理解力と集中力が不足しているようだ。 だが、僕がなぜ孤立せざるを得なかったのかが、分かったような気がする。 兎にも角にも、岸政彦さんの「100分de名著 ブルデュー『デイスタンクシオン』」や、AL...
僕には、書かれていることの全てを手にとるように理解することはできなかった。悲しいかな理解力と集中力が不足しているようだ。 だが、僕がなぜ孤立せざるを得なかったのかが、分かったような気がする。 兎にも角にも、岸政彦さんの「100分de名著 ブルデュー『デイスタンクシオン』」や、ALL REVIEWSの「石井洋二郎×鹿島茂、石井洋二郎著『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』を読む」などのイベントのおかげで、なんとか読み終えることができた。岸先生と石井さんに感謝したい。/ 学歴資格などや教育機関などの略語一覧のようなものがあれば、より読みやすいものになったかも知れない。/ 【「純粋」趣味とこれを理論化する美学は、「不純」な趣味と aisthesis 〔感覚・感性〕にたいする拒否をその基本原理としている。(略)「純粋趣味」が公然と非難する「安易な効果」にとらわれているように見える危険をあえて冒すならば、美学を語る言語は、安易なもの(略)への原理的拒否のうちにすっかり含まれているということを示すことができよう。】(追記 「純粋」批評の「通俗的」批判のために) 【来日講演の一つにおいて、ブルデューは「いわゆる社会階級なるものは、存在しないのです(‥‥‥)。存在するのは社会空間であり、差異の空間であって、そこでは諸階級が潜在的状態で、つまり一つの所与としてではなく、いわば何かこれから作るべきものとして、存在するのです」(於日仏会館)と語ったが、この言葉は以上の事情を端的に物語っていよう。つまり社会空間とは既成の階級へと分割された所与の構造ではなく、むしろこれからそこで諸階級がおそらく生成するであろう過程的な場なのである。】(訳者解説)
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批判の中でデリダの哲学についても触れていて、テクストに依存しすぎているというような文脈で取り上げていたような気がする。
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