「線」の思考 の商品レビュー
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<目次> 第1章 小田急江ノ島線とカトリック 第2章 二つの「常磐」~「ときわ」と「じょうばん」の近現代 第3章 軍隊の消えた町~旭川の光と影 第4章 古代・中世・近世が交錯するJR阪和線 第5章 日蓮と「房総三浦環状線」 第6章 「裏」の山陽をゆく 第7章 神功皇后と継体天皇と北陸本線と 第8章 聖母=ショウモから聖母=セイボへ~神功皇后・マリアとJR筑肥線・松浦鉄道 <内容> 「小説新潮」連載の記事をまとめたもの。鉄道を縦糸に日本の宗教を横糸として、さらに天皇(制)を交えて、旅をして現地を訪ねながら考察していくスタイル。こういうエッセイが好きである。けっこう同じ所を回っている自分がおかしい(自分は銅像を廻っているので、その視点は異なる。越前でちょっとだけ継体天皇と継日の前之銅像の話が出てきたが)。鉄道の意義を少し感じながら読ませてもらった。
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空間思想史紀行。当然だが、「鉄道ひとつばなし」と変わらない。 以下、引用 特定の地点を対象とし、その空間の性格を考察するのは、「『点』の思考」である。(中略)一方、「点」よりも広い区域や領域を対象とし、その空間の性格を考察するのは、「『面』の思考」である。(中略)「『点』の思考...
空間思想史紀行。当然だが、「鉄道ひとつばなし」と変わらない。 以下、引用 特定の地点を対象とし、その空間の性格を考察するのは、「『点』の思考」である。(中略)一方、「点」よりも広い区域や領域を対象とし、その空間の性格を考察するのは、「『面』の思考」である。(中略)「『点』の思考」は、限定された空間を考察の対象にしているため、史料によって事実を確定しやすい。これに対して「『面』の思考」は、(中略)多分に想像力を伴なうものであり、抽象的になりやすい。(中略)しかし、「点」と「面」の中間には、「線」がある。「点」と「点」を結ぶことで「線」が成立する。「線」は「点」と同様、空間が限定されながら、一つの地点を越える広がりを持つという意味では、「面」とも共通する。(中略)本書で言う「線」とは、主に軌道を含む鉄道を意味している。鉄道の線路は、江戸時代までの街道や航路におおむね沿って敷かれることもあれば、全く何もなかったところに敷かれることもある。つまり、古代から近世までの人々の足跡に重なっていることもあれば、近代以降に新たな人々の流れを作り出すこともある。(中略)だが、本書で試みたのは、近世の「線」が近代になってどう変容したかを、多くの史料を使って明らかにすることではない。そうではなく、全国各地に通じる鉄道に実際に乗ったり、線路跡を訪ねたりしながら、ただ史料を読むだけではわからない、地域に埋もれた歴史の地下水脈を探ろうとしたのである。ここでいう地域とは、市町村や都道府県のような「面」ではなく、明治以降に画定されたそれらの境界を越える「線」を指している。「線」の起点から終点までの空間という軸に、古代から現代までの時間というもう一つの軸を重ね合わせることで、多様な日本の姿を描き出そうとする試みを、本書では「『線』の思考と名付けている。
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同じ原武史さんの「地形の思想史」と同時並行で一気に読んだ。鵜の目鷹の目、それでいて鳥の目と虫の目もある原さんワールドを満喫した。 日蓮と「房総三浦環状線」は、地形の思想史の「湾」と伝説の章と浜金谷あたりで重なる部分があり、うれしくなる。 軍隊が消えた街・旭川の最後の提言は納得した。JRも営利企業であり、どこまでも頼れない部分はあるだろう。この提言は様々な地方都市に言えるのではないか。
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鉄道は人の流れができていた街道に沿って 造られた場合が多いです。それゆえ古代か ら、神社仏閣が沿道、沿線に存在していま す。 近代に造られた中央線であっても、当時は 天皇陛下は鉄道で移動していた訳ですから 皇族に関係する施設は、都心では、四ツ谷、 信濃町、郊外では多摩御陵など、...
鉄道は人の流れができていた街道に沿って 造られた場合が多いです。それゆえ古代か ら、神社仏閣が沿道、沿線に存在していま す。 近代に造られた中央線であっても、当時は 天皇陛下は鉄道で移動していた訳ですから 皇族に関係する施設は、都心では、四ツ谷、 信濃町、郊外では多摩御陵など、やはり沿 線にあると言っていいと思います。 他にも日蓮の歩みを房総半島の鉄路に重ね たり、長崎のカトリック信仰を松浦鉄道に 重ねるなど、点を線として捉えています。 それらの歴史を学ぶと同時に、沿線の現在 を知ることもできる一級の紀行本です。
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本屋で気になっておりました。数ヶ月悩んだ末に購入。。 最初の江ノ島線編は面白い。読み進めていくうちに、前回読んだ中沢新一 アースダイバー神社編と同じく、文体というか思考が、ちょっと古過ぎるというか、作者の感じたことを単に文章にしただけで、いやその感じ方に期待して本を買うのですが、...
本屋で気になっておりました。数ヶ月悩んだ末に購入。。 最初の江ノ島線編は面白い。読み進めていくうちに、前回読んだ中沢新一 アースダイバー神社編と同じく、文体というか思考が、ちょっと古過ぎるというか、作者の感じたことを単に文章にしただけで、いやその感じ方に期待して本を買うのですが、今回も残念ながらあまり面白いとはいえませんでした。。 前回の中沢新一さんの本を読んだ時から考えてるのは、データで語れと言われてるこの世の中を生きてる人たちが一般的で、その人たちに向けて本も作るのだと思うのですが、編集者も作家も、あまりに生活感が無さすぎるので、こういうユルい本が出版されてるのではないかと感じております。 作家の感性が、Google未満であったら、読者は残念に思うでしょう。。 なんか買った側が悪いのか、、どうなんだろうか。。編集者同伴で旅するブログをハードカバーで売ってる本。。うーむ。買ってしまった自分がわるいのだろうか。。
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或る特定の場所「点」や、街や地域のような「面」でもなく、鉄道で結ばれた「線」上に点在するものたちに、それに関わった人たちの思想や歴史の流れを見ようとする「線の思考」、、、 という訳なのだが、鉄道好きのおじさんが乗り鉄しながら、駅弁レポート交えて歴史旧跡巡りしているエッセイという感...
或る特定の場所「点」や、街や地域のような「面」でもなく、鉄道で結ばれた「線」上に点在するものたちに、それに関わった人たちの思想や歴史の流れを見ようとする「線の思考」、、、 という訳なのだが、鉄道好きのおじさんが乗り鉄しながら、駅弁レポート交えて歴史旧跡巡りしているエッセイという感じ。
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『常に意識していたのは、民族学者の梅棹忠夫(一九二〇〜二〇一〇)が一九五〇年代から六〇年代にかけて、やはり北海道から九州までの全国各地を訪ねながら書いた「日本探検』(講談社学術文庫、二〇一四年)の一節である。「なんにもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目でみて、そ...
『常に意識していたのは、民族学者の梅棹忠夫(一九二〇〜二〇一〇)が一九五〇年代から六〇年代にかけて、やはり北海道から九州までの全国各地を訪ねながら書いた「日本探検』(講談社学術文庫、二〇一四年)の一節である。「なんにもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目でみて、その経験から、自由にかんがえを発展させることができるからだ。知識は、あるきながらえられる。あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく。これは、いちばんよい勉強の方法だと、わたしはかんがえている」』―『はじめに』 『特定の地点を対象とし、その空間の性格を考察するのは「『点』の思考」である』―『はじめに』と著者は定義する。言ってみれば時間軸に沿ってその地点がどのように変化してきたのかを考察する、ということであろう。もちろん、対象となる点は周囲から完全に独立的に変貌を遂げる訳ではない。しかし『一方、「点」よりも広い区域を対象とし、その空間の性格を考察』しようにも対象となる「面」はそれをどう定義づけるのかという曖昧さを回避し切れず『多分に想像力を伴うものであり、抽象的になりやすい』―『はじめに』とも著者は論を進め、その中間として「『線』の思考」を提唱する。ここまでは、その実態はともかくも、判り易い。かくして、著者は芭蕉張りの点と点をつなぐ旅に出る。 本書を手に取る切っ掛けとなったのは柳美里の「JR上野駅公園口」を読んだこと。柳美里が上野駅公園口という「点」に焦点を当てながら、常磐「線」に堆積した歴史的重みへの繋がりを小説の登場人物の来し方に重ねて展開したのは、まさに原武史が本書で試みようとしたことと同質のことであるように思う。違いといえば、原が歴史の中の「必然」を求めて線の風景を眺めようとするのに対し、柳は歴史の求める要請をただ受け止める市井の人々の在り方に焦点を当てたこと。その対比は文章の様式の違いというよりも、何か行政と住民とのすれ違いを彷彿とさせるようでもある。 確かに、本書で語られるような「必然」とも見える歴史の「偶然」は点と点を結ぶ線として表れ得ると思う一方で、その「偶然」に余りに「意図」を読み解こうとする原の姿勢は少しばかり強引とも感じる。特に、明治以降の皇室の動きや政府の施策と、点と点が結ばれていく(あるいは結びつきが解れていく)過程との重ね合わせが多いのが気になる。もちろん、例えば炭田と消費地との結びつきや北海道の未開の地の開拓のような判り易い例はあるだろうけれど、それ以前に点ごとに蓄積されていた人々の暮らしが変化のベクトルの向きを無意識に決定づけた要素を見過ごしてはいないかとも思うのだ。その土地に堆積した地層のような人々の思いは因習として数百年単位で生き続けるものであるのに対し、為政者の及ぼし得る時間の長さは比較的短い。同じように信仰をその土地の堆積物の中に読み取ろうとした中沢新一の「アースダイバー」が地質学的時間を相手にしているとすれば、原の視座は考古学的時間の中に留まっているように感じる。 必然とも見える偶然は、地形的な要因であったり物流の要請で起きたりもするだろう。例えば、ある下町の川沿いを歩いてみれば、食肉市場、屠場があり、革漉きの看板、染色の看板、やがて革問屋が表れたかと思えば、型抜き工場と順番に現れ、やがて靴工場を経て靴屋へと繋がる道筋が見える。それは誰かが意図した訳でも強制した訳でもない革ロードのようですらある。しかしそこにはうっすらと「穢れ」という概念と切り離せない距離と職業の分布の関係もまた見えてくる。鯖街道を辿る人や物の流れが歴史の中で太くなったり細くなったりすることが行政上の意図で起こったのではないように、その皮街道もいずれ解けた線上の不連続の点へ還元する。そこに態々「天皇」や「宗教」を重ねて読み解くこともなかろうと思うのだ。
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一つの地点を訪れるのでなく、ある路線を筆者の専門分野から見ると違った関係が浮かび上がる。宗教と天皇の視点からの紀行。 小田急江ノ島線とカトリック、日蓮と房総、三浦半島、山陽本線と新宗教など筆者の専門分野を活かした独自の視点。鉄道マニアの紀行でなくテーマは難しい。それでも筆者の著...
一つの地点を訪れるのでなく、ある路線を筆者の専門分野から見ると違った関係が浮かび上がる。宗教と天皇の視点からの紀行。 小田急江ノ島線とカトリック、日蓮と房総、三浦半島、山陽本線と新宗教など筆者の専門分野を活かした独自の視点。鉄道マニアの紀行でなくテーマは難しい。それでも筆者の著作が売れるだけ需要が多いのだろう。
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そうか、天皇制と軍隊はどんどん見えなくなってきてるんだ。ちょうど、私が子供のころ江戸や明治維新が見えなくなってきていたように。 個人的には湘南の話が面白かった。
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