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死ぬ練習 の商品レビュー

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2022/09/04

南直哉氏の本をいくつも読んでいるが、なかなか自分の中に落とし込めないでいる。 誰にとっても絶対的に分からないものは「死」である。そこには「不安」しかない。しかしその「死」を受容するキーワードは他者との関わり中での、自分が生きてきた「意味」。 それは自分の損得を忘れ、人から褒め...

南直哉氏の本をいくつも読んでいるが、なかなか自分の中に落とし込めないでいる。 誰にとっても絶対的に分からないものは「死」である。そこには「不安」しかない。しかしその「死」を受容するキーワードは他者との関わり中での、自分が生きてきた「意味」。 それは自分の損得を忘れ、人から褒められようとせず、無理矢理友達を作ろうとしないことの中から生まれるもの。要は他者の為に生きる中で生きる「意味」を見つけることが出来れば、「死」を受容できるということだろうか。

Posted byブクログ

2022/09/01

恐山住職代理の著者が、死と死者について述べた本。 はじめの方は、著者が考える死や死体、遺体、死者などの定義についての説明があり、 正直、些細とも思える違いを事細かに指摘しているので、 なかなか読み進められなかったが、 後半にいくにつれて、スピードが上がっていった。 内容について...

恐山住職代理の著者が、死と死者について述べた本。 はじめの方は、著者が考える死や死体、遺体、死者などの定義についての説明があり、 正直、些細とも思える違いを事細かに指摘しているので、 なかなか読み進められなかったが、 後半にいくにつれて、スピードが上がっていった。 内容については、 仏教の究極の目標は涅槃であるが、 涅槃が何かを明確に説明した文が仏教の経典にはなく 釈迦の死について、触れられているのみである。 つまり仏教は、死を目指して修行する 死ぬ練習ともいえるという。 この世に死んだ人はおらず、 死から生き返った人は、 体の機能が一度停止しただけで死んだわけではない。 つまり、死が何かを知っている人はこの世にいない。 わからない死を目指して生きることは 死を受容するためのテクニックである。 それは、死を丸呑みする方法である。  死の回避 (自分を遺そうとする努力)  死への慣れ(90歳を過ぎると死の不安が鈍る)  死の受容 (自分を大切にしない) 上の方法のうち、現実的な方法は、 自分を大切にしないというやり方である。  自分ではなく他者を先に立て、  自分と他者に共通する問題に取り組むことを言う。  この際、  損得  褒められること、  友達作りを目指さない。  この3つには、  思い通りにしたいという欲望が作用している。  自分の存在に根拠があり、  それ自体で存在しているという錯覚を強化してしまう  という。 どうせ死ぬのになぜ生きるのかという答えを断念し、 どうせではなく、あえて死を目指して生きる。 自己のあり方を見つめ続け、 生きる過程が死ぬ練習であると 結論づけている。

Posted byブクログ