古事記の神々 の商品レビュー
三浦佑之さんは以前紹介した「日本の神様図鑑(大塚和彦)」のようななんちゃって古事記研究者ではなく、私の信頼するガチの専門家である。神話時代と弥生時代を一緒に記述する学者が多い中で、三浦さんはキチンと分けている。 本書は三浦さんのガチの古事記研究書である。古事記は日本の最古の歴史...
三浦佑之さんは以前紹介した「日本の神様図鑑(大塚和彦)」のようななんちゃって古事記研究者ではなく、私の信頼するガチの専門家である。神話時代と弥生時代を一緒に記述する学者が多い中で、三浦さんはキチンと分けている。 本書は三浦さんのガチの古事記研究書である。古事記は日本の最古の歴史書であり、弥生時代研究にも、やはり重要参考書であることは間違いない。 三浦さんは天武天皇が勅選して作らせたという記述がある古事記の「序」は9世紀の偽造だと主張する。さらには明治政府は、国家を安定させ永続させるためには、「法」とともに、国家の精神的な支柱になる幻想が必要だと考えた。それが「記紀神話」として一括宣伝した理由だった、とする。それによって、古事記は国家の歴史書であると、誰もが疑問に思わずここまできてしまった。 古事記の神話部分には四割もの出雲神話があるが、日本書紀ではそれは見事に抜け落ちている。「国譲りの場面は存在しながら、いわゆる出雲神話と称される出雲の神々の神話や系譜を、日本書紀はほとんど載せていない(38p)」それは何故か。 信濃や出雲などの「滅びゆくもの」に寄り添った「語り」の歴史書が古事記であるからだ。 少し難しいけど、出雲神話を語ることで何をしようとしたのかは想像するしかないけど、興味深い本だった。電子書籍限定価格でかなり安く購入。「付古事記神名辞典」なので、旅の途中で調べ物をするときにも便利だろうと思える。
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・三浦佑之「古事記の神々 付古事記神名辞典」(角川文庫)を読んだ。講談社から出た「出雲神話論」の前駆書であらうか。ここでも出雲神話 が大きく採り上げられてゐる。「出雲神話論」を読んでない私はこの点でまづ興味深かつた。何しろ私の古事記は好きでちよつとかじつた程度である。たかが知れて...
・三浦佑之「古事記の神々 付古事記神名辞典」(角川文庫)を読んだ。講談社から出た「出雲神話論」の前駆書であらうか。ここでも出雲神話 が大きく採り上げられてゐる。「出雲神話論」を読んでない私はこの点でまづ興味深かつた。何しろ私の古事記は好きでちよつとかじつた程度である。たかが知れてゐる。それ以上に、私は古事記と日本書紀を「別個の作品だと言いながら『記紀』という呪縛(マインド・コントロール)から完全に解き放たれていない」(10頁)人達の 古事記理解の中にあつた。しかし、これが普通の古事記理解のはずである。アマもプロも、歴史も文学も、記紀の片方と理解しながら古事記を理解してきた。「今考えると、『記紀』という併称は単なる略称ではなく、恣意的にどちらかを見せたり隠したりする時に、たいそう都合よく使える呼称 だった。」(9頁)私 はその文学的な側面を、つまり「物語のおもしろさは古事記のほうにあ」(8頁)るといふ考へで読んできた。ところが、かういふのは問題であるらしい。誤解 を恐れずに簡単に言つてしまへば、「西欧型の近代国家の構築を目指した明治政府は……古代律令国家の再現を夢見るかのように……その 幻想を保証するバイブ ルの役割を」(7頁)記紀に受け持たせたといふのである。例へば記紀の融合から古代の英雄ヤマトタケルが生まれた。これが「戦後に なっても変化することな く継続された。」(9頁)その結果、「ほんとうなら疑ってよい認識を無批判に受け入れてしま」(11頁)ふことになる。例へば古事記 「序」は本物か。昔か ら古事記偽書説はある。三浦氏は古事記「序」偽書説を唱へる。古事記本体は古いものだが、「『序』は、後世の偽作であるとみなすの」 (12頁)だといふ。 この古事記序文偽書説は目新しいものであつたかどうか。私には古事記は偽書であるといふ認識がないのである。あくまでも古事記は真書 でありその序文は正し い、この段階で思考停止しているのである。さういふ人間からすれば、本書は「はじめに 古事記を読みなおす」から新鮮である。いや、 衝撃的といふべきか。 私は三浦氏の著書を初めて読んだのである。2冊目、3冊目ならまだしも、初めての人間にはいささかきつい。それでも古事記をこのやう に見る立場があるのだ と知つた。 ・個人的には、記紀の違ひに関して、書紀は律令国家の主張のための書であるのに対し、古事記は「古層の語りを主張し続ける」(18 頁)書だといふ指摘は正 しいと思ふ。書紀の政治性に対して、「音声の論理によって支配される『語り』の世界」(同前)が古事記にはあるといふのである。なの に、「ほかひびと(乞 食者)」がゐて物語を語り伝へた、例へば八千矛の神の一連の歌謡を見よ、といふ「研究史の流れを」(同前)現今の古事記、神話研究は 「無視し過ぎているの ではないか」(同前)といふ。これには大いに共感する。「語り」を無視しない研究者はゐた。しかし、圧倒的少数者であつたらう。万葉 集も歌はれた、語られ たと言つた。しかし、その言葉は無視されたのであらうか。上代文学研究は文字として残る資料を用ゐる。さうかもしれない。それでも、 上代文学に「語り」の 発想は必要である。簡単に言へば、字がないなら語り伝へるしかないのである。稗田阿礼はそんな人であつたかどうか。古事記はそんな語 りの世界の産物であ る。文字の時代になつてもそれは続いた。かういふことを忘れない研究者が今にゐて安心した。記紀の呼称と「語り」の問題は分かち難く 結びついてゐるはずで ある。そこに神の名称の問題も出てくる。出雲神話も出てくる。先は長い。次は「出雲神話論」を読まうと思ふ。
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古事記に登場する主だった神々について、その成り立ちや性格、他の神々との関係等を論じたもの。 著者は、古事記の序は後世に付け加えられたものであり、日本書紀が国家的事業として、国家の正統的歴史書を作ろうとしたのに対し、古事記はそうではないと言う。特に出雲神話が書記にはほとんど取...
古事記に登場する主だった神々について、その成り立ちや性格、他の神々との関係等を論じたもの。 著者は、古事記の序は後世に付け加えられたものであり、日本書紀が国家的事業として、国家の正統的歴史書を作ろうとしたのに対し、古事記はそうではないと言う。特に出雲神話が書記にはほとんど取り上げられていないのに対し、古事記では、権力に抗い、敗れた敗者への共感があるのではないかとする。 そうした基本的立場から、オオクニヌシを始めとする神々について説明されるのだが、特に、出雲から越にかけての日本海側のつながりに着目する。 著者の見解について、その当否を述べる能力はないが、古事記を読み込んだ魅力ある仮説だと思えた。 なお、神々は似た名前が多いので、文庫版に付された神名辞典は大変便利である。
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