砂の降る教室 の商品レビュー
昔ここに滝は在りきと少年はきつぱりと言ふ べそをかきつつ 涙を流すくらいの少年だから、きっとまだ幼い子どもなのだろう。その子の言う「昔」と言ってもそこまでの大昔ではないだろうということがおかしみを誘う。あるいは本当に滝が雲散霧消したのかもしれないが、とにかく少年の生活圏から幾...
昔ここに滝は在りきと少年はきつぱりと言ふ べそをかきつつ 涙を流すくらいの少年だから、きっとまだ幼い子どもなのだろう。その子の言う「昔」と言ってもそこまでの大昔ではないだろうということがおかしみを誘う。あるいは本当に滝が雲散霧消したのかもしれないが、とにかく少年の生活圏から幾分離れたところまで滝のあることを期待しながら行き進んだのにもかかわらず、あったのが不在(ただ無いだけでなく、あるものが無いという負への転換)だったために彼は泣いたのだ。 一ヶ月分の天気を手分けして調べてゐればしづしづと秋 夏休みの日記を、友達とあるいは兄弟で手分けをして進めているのだろう。本来は一日一日と季節は進んで行くが、日記帳に黙々とそれまでの天気を書き連ねて行くうちに、記号のうえではこと速く、いつの間にか夏休みの終りの、初秋になってしまったという歌意。 連作「A町商店街」 この道が桜並木につながると子らは王墓の秘密のやうに 町に住むつばめの数を聞くために巡査を揺すり起こしてゐたり 駅ビル計画が実行される前に、商店街の抜け道を全部覚えてしまふつもりである。 石黒正数の『それ町』のような趣のある連作であった。がちで泣きそうになった。普段自分が暮らしているところで、他の人ももちろん暮らしていて、誰も知らない秘密があって、という町の包括性のようなものに私は弱い。 「先生今飼つてる犬を叱るやうに私のことを叱つたでせう」 塾か家庭教師かにおける、教師たる「私」と生徒との会話である。鉤括弧が魔法のように作用する。単に面と向かって言われたのかもしれないし、虚を突いた生徒の発言を「私」が帰り道にずっと頭の中で反復しているのかもしれない。「飼つてる犬を叱るやうに」叱るとはどういうことだろう。いくつか思案を巡らせるのも楽しい。 野球選手が野球を辞めてゆくやうな夕べ中央線を待ちつつ 美しい比喩。皆何かを辞めていく。それは打ち込んだ野球かもしれないし、短歌かもしれないし、あるいはもっと大きなものかもしれない。そうしたことに、日が暮れていくのに合わせて気づいてしまう。そして詠み手は中央線に乗って、また降りて行く。その頃には更に夜に近付いている。
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2003年に刊行された石川美南の第一歌集の新装版。高校〜大学時代の歌を収録。 柴田元幸編『短篇集』収録の「物語集」を読んで以来好きな石川さん。単独の歌集は持っていなかったので、リーズナブルな値段で復刊されて嬉しい。 全編が青春の匂いに包まれている。Ⅰ章は移転することになった大...
2003年に刊行された石川美南の第一歌集の新装版。高校〜大学時代の歌を収録。 柴田元幸編『短篇集』収録の「物語集」を読んで以来好きな石川さん。単独の歌集は持っていなかったので、リーズナブルな値段で復刊されて嬉しい。 全編が青春の匂いに包まれている。Ⅰ章は移転することになった大学の旧キャンパスへの郷愁に始まり、 おまへなんか最低だって泣きながら言はれてみたし(我も泣きたし) のような、恋に憧れる気持ちを歌った作品が多い。「文化祭にて」の連作は、高校の文化祭でフラメンコを踊るクラスメイトに感動する側だった思い出が蘇った。 Ⅱ章は高校時代に作った歌と小中学校の思い出を詠んだ歌を収める。 まだ君が全てではなくうすあおき銀杏の影に身を浸しおり という歌もある通り、恋を知る前の無邪気な感情と、家族と学校だけの小さな世界を描いた歌を集めている。小学校の思い出とおぼしき ピストルを手にするときのときめきを顔に出したらだめよ、先生 のように笑える歌もある。軽くて明るいユーモアはこの人の持ち味だと思う。人間の暗い面を覗き込みながら、カラッと乾いたままでいる強さがある。 Ⅱ章終わりに置かれた「完全茸狩りマニュアル」からⅢ章にかけてだんだんと幻想味が増してくる。もちろんⅠ章から日常を異化するフィルター越しに世界を見ている人だということは伝わるのだが、Ⅲ章ではそれが加速し、虚構と現実の境目はより曖昧になっていく。 鍋の蓋だけを盗む泥棒にまつわる連作や、年かさの古書店主との淡い恋と別れを逆順に辿る連作の歌、 澄みきつて夜 わたくしは持ち去られしなべのふたなど恋ひつつぞある (なべのふた泥棒に捧ぐ) ちりちりと痛む指 君は満開の金木犀を褒めすぎてゐる (茨海書店店主と出会ふ) などは、虚構性が高くもそこに忍ばせた心の動きは真に迫っている。 また、擬態語を嵌め込んだ連作「だぶだぶ」をはじめ、Ⅲ章の作品は音感がいい。 鉄琴の上に降る雨 許す前に許されてゐる苛立たしさは は、上の句で聞こえてくる音と光景が、ひんやりとした感触を伴って下の句でうたわれる感情に浸み込んでいく感じが好きだ。 最後に、現代短歌クラシックスというシリーズをはじめて手に取ったが、装幀と判型がとてもいい。今の短歌はこんなふうに、コートのポケットに入るサイズであってほしい。
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