ナチスに抗った障害者 の商品レビュー
ユダヤ人障碍者たちはユダヤ人としての迫害に加え、障碍者としての差別にさらされた。さらに障碍者組織から追放された彼らは、次第に孤立無援の状態に追いやられていった。ユダヤ人の中でも、もっとも弱い立場に置かれた彼らは、障害者同士互いに手を携えて生きようともがいた。彼らは自分達で独自の組...
ユダヤ人障碍者たちはユダヤ人としての迫害に加え、障碍者としての差別にさらされた。さらに障碍者組織から追放された彼らは、次第に孤立無援の状態に追いやられていった。ユダヤ人の中でも、もっとも弱い立場に置かれた彼らは、障害者同士互いに手を携えて生きようともがいた。彼らは自分達で独自の組織を結成し、必要な情報を伝えあい、励ましあった。しかしだからといってユダヤ人障碍者は決してあらゆる人々から見放されたわけではない。彼らを救おうとする努力は、ドイツの国内外にあった。ナチスが政権を握ると、各種のユダヤ人障碍者施設や学校では、「不幸で無力な」収容者たちをなんとかして国外に逃そうと奔走した。たとえばアメリカに住む著名なヘレンケラーのもとには、ドイツ国内の障碍者施設から「助けて欲しい」という趣旨の手紙が山の洋に届いたという。ヘレンケラーは1938年、ニューヨーク・タイムズに手紙を送り、ヨーロッパにいるユダヤ人障碍者の球場を記事にしてほしいと訴えた。手紙の中で、アメリカ人であるヘレンケラーは、海を隔てたドイツに住むユダヤ人障碍者のことを「同じ障害をもつ仲間」と表現した。人種や国の違いを越えて、彼女は障害という共通性のゆえに彼らを仲間と呼んだ。実際に、ドイツのユダヤ人障碍者や施設関係者が救いを求めた相手は、国外の障碍者施設やその関係者が多かったナチスの台頭によって、ドイツ国内の障碍者コミュニティからは追放されても、国外には同じ障害を持つ同胞としてユダヤ人障碍者に同情を寄せる人々や組織が存在したのである。ユダヤ人障碍者の国外移住の努力は、結局ほとんどが不首尾に終わった。その中で、ベルリンのイスラエル聾唖学校は、国外移住によって生徒の命を救えた数少ない成功例である
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