仏教における女性差別を考える の商品レビュー
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長年のもやもやの大部分を網羅してくれた本。 もやもやの中身は ・散々男女平等で教育する割に、法律や手続きや組織や上の世代はそうではない事 ・親族である寺の男社会、跡継ぎ問題 ・仏教がそもそも女性差別をしていること ・日本人なのに日本の伝統に触れると女性として疎外感を感じる事 ・世界を見渡しても稀有な伝統が現代人が深く考える事を阻害する装置になっている事 ・その為に衰退するには勿体無いこと ・よくわかって無いのに宗教的なこと(初詣も葬式も)をする自分 フェミニズムという言葉そのものは、未だに自分の言葉で説明できないが、最近外国のゲーム会社が作ったゲームで堂々と日本人と日本文化が搾取されており、前提の一致しない他者に対してやはり前提の一致しない自分の意見を述べる中で、差別とは何かすごく考えました。 その中で、結局自分が日本社会、男社会に感じていた違和感も言語化した方がよく、そこからしか始まらないという気持ちが強まり本書を手に取りました。ニッチな内容でありながら欲しい範囲をすべて網羅していたので本当に助かりました。 本当に大切な大切な最初の叩き台、大いなる言語化に多大な尊敬と感謝を述べざるを得ません。著者が展示企画のパネルを急に減らされた体験は、当時はさぞお辛かったろうと思いますし、対話が成立しない様子は私にとってもわが事のようにもどかしく感じられます。男性たちは、女性にそれこそ子どもに注ぐような愛を向けてくれる事を私は知っています。大きな大きな愛がある事を知っています。それなのに、なぜ取り合わないという事が起きてしまうのか。きっともっとよい未来になるのに。 近年ポリコレによって男性が生きづらくなったという声が聴こえます。男性が女性や性的マイノリティに仕事を奪われたというケースさえありますが、それは問題の本質ではないと思うのです。わたしは女が男を差別する仕組みを再生産したいとは微塵も思いません。ただ今あるシステムと現代の合わない点を最適化したい。それは親鸞聖人の否定ではないと思います。 親鸞聖人はむしろ当時相当ロックな思想をお持ちで、おそらく当時の常識的な人々から散々怒られたと推察します。女性を愛していてその事に嘘も方便も使えないほど自分に真っ直ぐで正直で、もしかしたら若干アスペ気質のストイックな方だったのかなぁと思うと、とても微笑ましくどこか身近に生き生きと感じられます。親鸞聖人がご自分の内面に立って自立的な思想を持たれたのと同じことが起きているだけ。対立ではなく、構造を明らかにした後、男性と女性がお互いの強みを活かして調和した社会になればいいのにと私は思います。はるか昔に戒律を破った親鸞聖人は男性ですが非常識を体現した偉大な先駆者に思えるのです。 男だから女だからLGBTQだから、という雑な取り組みではなく、全ての人の得意不得意をモザイクガラスのように組み合わせて、お互いの得意と不得意を補い合い豊かに調和する世界が作られることを祈っています。その為の第一歩として、自分の違和感を言語化し、身近な人と、場合によっては然るべき場所へと伝えていく。 そんな大河の一滴になっていきたいと、しみじみ思うのです。
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私はフェミニズム系の本が苦手だ。 初めていい本にあった。 東本願寺ギャラリー展で「経典に表された女性差別」パネルを監修された著者なのだが、浄土真宗に関わる部分を展示直前に外されたという事があった。その内容についてと、著者自身の「親鸞とジェンダー」というテーマでのお話。 パネル問題は部分的な情報しかなかったので意味がわからなかったのだけれど、制作側の立場からの内容を読んでようやくわかってきた。前に読んだ源さんの本の感想でも書いたが(『いつまで続く「女人禁制」: 排除と差別の日本社会をたどる』)、差別問題って、結局言い訳しないで「差別あったよ」って認めるところからでしかなにも前に進まないと思う。これは最後読み進めていって、源さんも同じ事を書いていらっしゃった。いくらこじつけて別の読み方しても今の我々の感覚で言ったら差別であることはどうしても変わらない。当時の感覚ではそうでなかったのも事実かもしれないが、今という立場で認めることは必要だと思う。これはあらゆる差別問題でいえることじゃないかな。 すごくこの問題で共感を持ったのは、フェミニズムの研究をしている源さんがいざ被害者の立場になったら、即時に声が上げられなかったというところ。これって本当の事だ。いろんな人は、なにか事が起こったときちゃんとしておけばよかったのにとか言うけど、そんなにうまくできないよ。 私は心理カウンセラーの勉強をしていたときの実技で被害に遭った人の話を聞くセッションがあった。大体が、そのとき反論の声を上げられないのだ。自分が悪いのかもしれないという思い。これくらいなんともないと思えない自分が未熟なのかもしれないという思い。差別もハラスメントも被害者が個人が守りたいものを他者に傷つけられるという点で一緒ではないか。 最近、ネットのコラムでお笑い芸人の東野氏が、明石家さんまの限界について話しているのを見た。「さんまさんがオネエキャラの人を”おっさんやないかい”といじることはもう許されないということがわかっていない。」LGBTのことを世間はもう理解し始めている。これをこのように”いじって”笑いをとることができないということがわからない人たちがいると言っているのだ。 なにもこれはお笑いに限った話ではない。社会生活においてもそうだ。 性別関係なく、セクハラと捉えられるような発言をしたときに、誰もなにも咎めなかったから大丈夫ということはない。先ほどのカウンセラーの勉強の時、被害者はそれを大丈夫だと思い込むために真逆の行動をすることもあると知った。例えばセクハラをなんともないと思うために、下ネタにも笑顔ですぐにノっていくこと。いやでいやでたまらないけど上司の誘いには絶対逆らわない人。心の中とは逆のことが行われていることがある。そして自分をもっと傷つける。「この人は大丈夫」「ここまでは世間で許される範囲」って誰が決めるのか。それは自分の勝手な解釈だ。相手の何をわかって「大丈夫」というのか。私はこの学びをしたときからずっとこれが心に残っている。無言はOKじゃない。 源さんの歩まれた道というのは素朴で、ご本人の感じられたままのことが書いてある。”正しい”という価値観ではない。「女人五障」「変成男子」に関しても自分が立って見る視点から書かれている。宗教的自立に忖度はない。 私はここ2ヶ月以内で「女犯偈」を目にするのは3回目だ。前の2回は男性の講師からの話だった。親鸞のセックス観は、仏教の戒を破ることであったと自らが妻子ある男性と生活を共にしたことを告白されながら語られている。ここで私はこの本がすごいのは虚飾がないことだと理解した。前2回に聞いたものと違う解釈であったが、それが正しいとか間違っているとかでなく、源さんの解釈を噛みしめた。 フェミニズムにありがちな、自分が可哀想なにおいや、フェミニズムを掲げる尊大さみたいなものがない(私の偏見かも)。なんなら性別も感じない。女性の視点じゃなくて、あくまで人間の視点なんだよな。いい本です。そして私はどうなのだと考えさせられた。ここがいい。 仏教関係者とか関係なく、是非読んでほしい。
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