サジュエと魔法の本(上) の商品レビュー
・伊藤秀彦「サジュエと魔法の本」(文芸社文庫)を読んだ。おもしろいのだが、その理由の一つは名古屋弁である。登場人物の二人が名古屋弁を使ふ。チュイ人の村長が「なまりのきつい話し方で『森の外から来られた方々よ、ようこそわれわれチュイ人の村へいりゃあたなも。」(上150頁)と歓迎のあい...
・伊藤秀彦「サジュエと魔法の本」(文芸社文庫)を読んだ。おもしろいのだが、その理由の一つは名古屋弁である。登場人物の二人が名古屋弁を使ふ。チュイ人の村長が「なまりのきつい話し方で『森の外から来られた方々よ、ようこそわれわれチュイ人の村へいりゃあたなも。」(上150頁)と歓迎のあいさつをする。以下も見事な名古屋弁である。次はちよつと違ふかもしれないが、「幻の丘を望む南の岬の家」(下53頁)の、たぶんまだ若い母親ジュファがサジュエに言ふ、「わたし、魔女だからさあ、占いは得意なんだ わね。」(下63頁)だわねの語尾や全体の雰囲気が名古屋弁つぽい感じである。ただ、こちらははつきりと名古屋弁と言へるかどうか。しかし、そんな登場人物がゐるだけでも楽しい。こんな人物がゐるのも作者が準名古屋人だからである。春日井市出身とある。しかも地方公務員、県か市町村かであるが、名古屋弁の中で生活してゐる人であらう。だから、よくある紋切り型の田舎言葉より、かういふ言葉、名古屋弁が田舎言葉として使ひ易いのであらう。と言ふより、大いなる田舎と称された名古屋である。そのまま使へば良いのである(、なんてね)。理由の二つ目は作者が「あとがき」で述べてゐるやうに、「パクったと言われそうな個所なら、ほかにいくらでもありそう」(下350頁)なことである。例へば最後に出てくる邪神、この言ひ方だけでラブクラフトを思ひ出させる。実際にその姿は、「あらゆる生き物がでたらめに混じり合ったような、まがまがしい姿。」(下323頁)であつた。この前に具体的な様相が描かれるが、それは正にクトゥルー神話の邪神そのものである。これもクトゥルー物だと言つてしまつても良ささうな感じさへする。この邪神現るまでのいきさつもクトゥルーにでもありさうで、作者が日頃慣れ親しんだ作品をまねた、パクつたであらうことは十分に察しがつく。こんなのは他にもありさうである。パクる方が悪いのか、パクられる方が罪作りなのか。要するに、良い作品はパクられる、これだけのことであらう。 ・物語は、このやうなファンタジーの常として、舞台をヨーロッパ中世あたりにおいてゐることが多いが、これは違ふ。たぶん近未来といふあたり、それも魔法が通用する社会である。魔法的存在も多く、魔術師を魔導師、その黒いのを邪導師といふ。小学校でも魔法を教へるやうで、主人公は12歳、 「歴史に名を残す大魔導師の孫でありながら、サジュエは魔法が大の苦手だった」(上13頁)。それなのにある日副題の赤い本を奪はれさうになつて旅立つて以来……とまあ、お決まりの成長の物語が続く。これはファンタジーの伝統、パクつたなどと言へたものではない。トールキンも、ルイスも、ル=グインも、その他多くの作家達が皆同じことで物語を作つてきた。パクるのではない。正攻法である。そして旅の仲間と出会ひ、ヒロインが現れ……と物語が続いて「最後の戦い」、王の戴冠に至る。最後まで型通り、見事なものである。舞台が近未来ならもつとS F的要素がありさうなものだが、これはあくまでファンタジー、魔法的要素が強い。最後の戦いもさうである。といふより、ここでさういふのが一気に吐き出される。その最果ての邪神であつた。この物語、さういふ型通りを気にせずに読めばおもしろく読める。大家の作品でも似たやうな設定や進行等はあるもので、それでもそれがおもしろければ良いのである。魔法があつてもおもしろくなければファンタジーではない。私にはおもしろかつた。作者も結局は楽しんで書いたのではと想像する。それゆゑにまともなファンタジーと思へる作品であつた。
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