江戸の牢屋 の商品レビュー
・江戸末期の牢獄の写実で有名になつたのは黙阿弥の「四千両小判梅葉」であつた。初演時、千歳座の田村某が小伝馬町の元牢役人であつたため、黙阿弥はそれ に教へを受けて書いたといふ。牢名主が遥かの高みの畳の上にゐて……といふのだが、この様子があまりにもリアルであつたといふ。中嶋繁雄「江戸...
・江戸末期の牢獄の写実で有名になつたのは黙阿弥の「四千両小判梅葉」であつた。初演時、千歳座の田村某が小伝馬町の元牢役人であつたため、黙阿弥はそれ に教へを受けて書いたといふ。牢名主が遥かの高みの畳の上にゐて……といふのだが、この様子があまりにもリアルであつたといふ。中嶋繁雄「江戸の牢屋」(河出文庫)を読むと、確かにあのやうな牢屋の状態であつたと知れる。本書にはその牢屋に入るまでの記述もある。「町奉行所同心、そして牢屋同心、牢屋下男ら六、七人かかりっきりで罪囚を裸にし云々」(16頁)と、実に「仔細に調べ」(同前)たといふ。さうして牢に入る。この時、様々なお仕置き、いや入牢儀礼がある。牢名主は「見張畳と称して、十二枚かさねの畳の上に傲然とかまえ、牢内の生殺与奪の権をにぎる。」(29頁)牢内に限るとはいへ、圧倒的な権力者である。以下、畳1枚に1人の上座、1枚に2人の中座、3、4人の下座、金比羅下と称される小座となると4、5人から7、8人詰め込まれる。まだ下があるが、ここまででもその歴然たる差は明らかである。これが牢名主をトップとして11番まで位づけされてゐる。見事な階級社会である。それを黙阿弥は舞台で見せたのであ る。あまりにリアルであるといふ類の評も、観客に関係者がゐたからこそ出てきた評であらう。著者はこの牢獄を「比類なき地獄社会」(5頁)と呼ぶ。「江戸の牢獄は、現在では到底眼にすることのできない、人間ぎりぎりの限界状況をわれわれに垣間見せてくれるのである。」(6頁)その「人間ぎりぎりの限界状況を」本書は描く。それは本当に「限界状況」であつた。 ・例へば明治元年、つまり慶応4年の小伝馬町牢獄は、「牢内はほとんど立錐の余地もない、といっても過言でない過密状態だった。(原文改行)当時の牢名主は豪語して、(原文改行)『畳一畳に、十八人まで詰め込めるーー』」(31頁)と言つたとか。これでは眠れるはずもない。また、牢に入る前には取り調べがあつた。誰もが素直に白状するわけではない。さうなると拷問である。「幕府四種の拷問は、第一笞打ち、第二石抱、第三海老責、第四釣責、是れなり」(68 頁)と元与力の佐久間長敬が書いてゐるとか。しかし「たいがいはきつく縛りあげられたときに泣き叫び云々」といふことになつたらしい。これまた大変である。牢内はすべてこの調子である。しかし、ここは地獄である。地獄の沙汰も金次第とはここのための言であらう。「お前様、ツルをお持ちか?」と「新入りの入牢者の面相を熟視し」(48頁)て牢名主は尋ねるといふ。小伝馬町に来るやうな輩はその点は心得てゐたらしい。ところが、吉田松陰ともなるとさうはいかない。「生命のツルを何百両持参したかーー」(136頁)との牢名主の問ひに答へられない。文無しである。それでも金の工面は認められ、最終的に松陰は添役にまで、つまり牢内ナンバー2まで上り詰めた。同じ勤皇の高野長英は、その医術の心得ゆゑに牢名主にまで上り詰めた(176頁)といふ。同じやうに入牢儀礼を受けても、出世できる人間もゐるのである。と、まあ、興味は尽きない本書の内容である。何しろ私は牢屋といふものを知らない。現代のはもちろん、昔のも知らない。そんな人間からすれば、本書は興味津々であつた。明治の観客が「四千両小判梅葉」を見て驚き、好奇心を満足させたのと同様に、私もまた好奇 心を満足させた。ただ、例へばいつから牢名主はゐたのか、そして牢内はいつから階級化されたのか等々、歴史的なことが知りたいのだが、それは本書にはな い。これは別の専門書の分担であらうか。しかし、おもしろかつた。
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