学校の面白いを歩いてみた。 の商品レビュー
ずっと心に抱えていた日本の教育に対するモヤモヤがまとまっている1冊だった。 思い返せば、小学校・中学校の授業では始めに「めあて」、最後には「まとめ」が書かれていた。まとめさえ覚えておけばテストでいい点数がとれた。これは教育委員会によって授業の内容について厳しく決められていたから...
ずっと心に抱えていた日本の教育に対するモヤモヤがまとまっている1冊だった。 思い返せば、小学校・中学校の授業では始めに「めあて」、最後には「まとめ」が書かれていた。まとめさえ覚えておけばテストでいい点数がとれた。これは教育委員会によって授業の内容について厳しく決められていたからだと分かって納得した。小・中学校ではテストでいい点数を取れることに面白さを感じていた。高校に入ってテストで良い点数を取れなくなり、勉強する意味がわからなかった。勉強に楽しさを見出していたわけではなく、テストでいい点数をとれることが嬉しかっただけなんだと思う。 新しいことを見たり、聞いたり、体験したりすること、勉強することって人間の本来の意義というか生きがいだと思う。子供たちに勉強は苦痛だと感じさせてしまうのが、日本の教育であるように感じる。でも、学校以外に学ぶ場所はたくさんあるし、本来の勉強は机に向かうだけのものじゃないと思うから、学校や日本の教育が悪いと文句を言うのではなくて子供も大人も一緒に日常生活の中で学ぶ機会を作ることが大切なんだと思う。 - - - - - - - - - - - - - ✄- - - - - - - - - - - - ・モンテッソーリ教育を全面的に認めると文科省の従来の教育を壊れてしまう。 文科省の従来の教育:子供はこうあるべきという概念に基づいているので、必要なことを教え込む教育 モンテッソーリ教育:教育は個々の違いに合わせて行われるもの 通常の学校では教員の「教え込む」という姿勢が強い。それに対して、モンテッソーリ教育では援助する姿勢。子供が自分の興味に従って展開していくのを助ける。 嫌なことを強制させられると面白いとは思えない。強制されれば成長するどころか、精神的にも鬱な状態にしかならない。興味を持って取り組んで結果を出せた自信が、新しいものに取り組んでみようという気持ちにさせる。 従来の教育は「競争心をあおる」ことが多い。その結果、学校は挫折を経験する場になってしまっている。一方で、モンテッソーリ教育では「個々の良いところを認める」ことを基本にしている。 ・「先生の期待する答ばかり探す子どもを、たくさんつくってきた」教員が主体で子どもたちは無視されている従来の授業。 全国学力テストは自治体や学校の競走道具になってしまっている。 日本の教育そのものがテクニック優先になっているのかも。教員は「自分は子どもたちより上」という意識が強いために、ついつい頭ごなしになってしまう。「生徒の前で先生が間違ったことをしてはいけないとおもっているから体面を保とうとする。だから、先生も生徒の前でたくさん失敗すればいい。失敗しちゃったら、「ごめんね」っていえばいいんだから。」 規則ありきの環境は、結局のところ、子どもたちを信用していないということ。 ・自然とふれあわないとこどもは育たない。人として大事なことは自然とふれあうことで学べる。そうしたものを経験できる場を、今の子どもたちは失ってしまった。体験もしないのに知識だけを詰め込んでも意味が無い。 ・明治政府以降の日本の教育は「起立、礼、着席」から始まって、教員が板書して、それを子どもたちはノートに写して暗記し、その結果をテストで調べるというスタイル。日本が工業製品を大量につくって輸出する工業化に向かう中で、そういう教育で育つ素直な子どもたちを産業界が求めた。早く覚えて、目の前の作業を正確に処理する能力、規則的に同じことをやる若者が求められていた。それに学校は応えてきた。でもそんな時代は終わった。学びの質の転換が必要な時期に入った。教育は、人生を豊かにして、選択できる可能性を広げ、バックアップしていく役割でなければいけない。 ・社会全体をリードする役割を教育が果たすべき。
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p.26 「興味を持って取り組んで結果を出せた自身が、新しいものに取り組んでみようという気持ちにさせるというのだ。全部を強制されて、どれに自分が興味があるのかわからない状態では、自身を持つこともできず、チャレンジする気持ちも起きない。さらに従来の教育だと「競争心をあおる」ことが多いのに対して、モンテッソーリ教育では「個々の良いところを認める」ことを基本にしているという。競争心をあおってがっこうが熾烈な競争の場になっていることは誰にも否定できない事実だし、そのために学校は学ぶ場というより挫折を経験する場になってしまっているのが現実でもある。それが、今の学校の最大の問題でもある。 p.42 「そういうときに従来の授業だと、まず口を開くのは先生なんです。先生は沈黙がたまらんから、すぐ答えを教えてしまう」みんな黙る中で、「しょうがないな。教えてやるから、しっかり覚えときなさい」といわんばかりの態度で教員が答えのようなものを口にする。 「でもね、子どもたちが黙っても、私の方から口を開くようなことはしません。黙っていても、子どもたちが頭の中で考えていることはわかっているからです。考えているにもかかわらず、『答えはこれよ』と先生が先に行っちゃうと、子どもたちは考えるのを辞めてしまうからです。考えるのを中断されて答えを教えられても不快感ばかりで答えは印象に残らない、だから学ぶこともしない」「黙っていても、そのうち誰かが口を開くんです。それに『いいね』と応えると、それとは違ったことを考えていた子は『自分の歯正解じゃなかったんだ』と思ってしまいますから、『ふーん』などと否定も肯定もしない。すると、否定されないことがわかって意見を口にする子が増えてくる。それにヒントを得て違う意見も出てくるし、突飛な発想の答えも出てきます。それがヒントになることもあるし、そんなことをいってもいいんだというので次々と意見が出てくる。そうやって自分の頭で考えるようになると、わからないことを隣の子に訊ねてみたりするようになるんですよ」 見方によれば、これも「ワーワー」にしかみえないかもしれない。しかしこどもたちは自分の知識を総動員しながら考えているし、ほかから知識を吸収している。つまり、学んでいるのだ。 p.98 「愛情ですよ。規則で押し付けるんじゃなくて、愛情を持って、そういう気持ちで教員が子どもたちと接することが出来るかどうかじゃないですか」西郷さんは言った。ダメなことの理由を説明して子どもたちにダメと言えるかどうかは、愛情があるかどうかが大きいというわけだ。そこのところが曖昧になっていることが多いのかもしれない。 「僕が先生たちに言っているルールは『自分ができないことを頭ごなしに子どもたちに押し付けないこと』それだけです」 そう言って西郷さんは、「だから先生たちも自然体でいいんだよ」と続けた「自分たちは子どもたちより上」という意識が教員は強いために、その体面を保とうとして、ついつい抑え込むような強い口調につながってしまう。頭ごなしになってしまうのだ。 「生徒の前で先生が間違ったことをしてはいけないと思っているから体面を保とうとする。だから、先生も生徒の前でたくさん失敗すればいい。失敗しちゃったら、『ごめんね』って言えばいいんだから。僕なんか、いつだって子どもたちに謝っています。『約束していたけど忘れててできなかった、ごめんね』ってね。体面なんて保つ必要ないから、頭ごなしな言い方もしなくていい。規則規則と言わなくても、ダメなことがあれば、ちゃんと理由を説明して指導すればいい」 そうすれば、わざわざ規則なんて作る必要はない。理由もわからない規則で子どもたちを縛るより、ちゃんと理由を説明してくれて、しかも頭ごなしではないのだから、子どもたちも素直に聞き入れることが出来るというものだ。そして教員も自分たちと同じように失敗も多いとわかれば、身近に感じられて、なおさら素直になれる。わざわざ規則なんて作る必要など、どこにもないのではないか。
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読了。中一の娘に薦められた本。学校が変わりつつあることを知ってワクワクしたが、最後の2章を読んで、まだまだ道は険しいなと思った。
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