真実の終わり の商品レビュー
フェイクニュースが蔓延るポスト・トゥルースとフィルターバブルに代表される分断に満ちたこの時代(トランプの時代)。それが育まれた根底にポストモダン的な相対主義がある、という指摘に死角から頭を殴られたような気がした。 自分たち(これは世代的な違いも大いにあるだろう)の言語、あるいは文...
フェイクニュースが蔓延るポスト・トゥルースとフィルターバブルに代表される分断に満ちたこの時代(トランプの時代)。それが育まれた根底にポストモダン的な相対主義がある、という指摘に死角から頭を殴られたような気がした。 自分たち(これは世代的な違いも大いにあるだろう)の言語、あるいは文化的な素地そのものが今やほぼポストモダンだからだ。それ故にショックを受けた、と同時に腑にも落ちてしまった。心情的にはリベラルで文化を愛してやまない自分も、結局のところは無自覚に加担していたんだ、という事実に気付かされる。 現代はポストモダニズムが生み出した冷笑やシニシズムの飽和状態なのかもしれない。その余白がフェイクニュースや歴史修正主義を社会に許容してしまっていると著者は語る。 「ドキュメンタリーは嘘をつく」と森達也は作品そのもので語った。その通りであるし、そうあるべきだとも思う。ドキュメンタリーは主観である。これは逆説的に言うと、事実は相対的なものだ、とも捉えられてしまう。 では報道はどうなのだろうか?事実のみを追い求め、事実のみを純粋に伝えることなんてできるのだろうか? 著者が警戒するポストトゥルースから全体主義へと移行する時代の潮目に、「純粋な事実≒絶対的な正しさ」を追い求める行為はドン・キホーテのようだ、と思ってしまうのはまたポストモダン脳なのかもしれない。 読みながら突破口になりそうなものは見つけられなかった。著者もはっきりとそれを提示してはいない。でもやはり一つだけ間違いないのは「複雑なものを単純化し捻じ曲げる行為」に抗うことを忘れてはいけないということだ。
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