運命論を哲学する の商品レビュー
本書は2015年に講談社から刊行された入不二基義の名著『あるようにあり、なるようになる――運命論の運命』を教科書として、入不二本人および森岡正博が、その解説を試みた哲学的参考書である。『ある、なる』を読んだ読者も、これから読もうとしている読者も、同様に楽しむことができる。 本...
本書は2015年に講談社から刊行された入不二基義の名著『あるようにあり、なるようになる――運命論の運命』を教科書として、入不二本人および森岡正博が、その解説を試みた哲学的参考書である。『ある、なる』を読んだ読者も、これから読もうとしている読者も、同様に楽しむことができる。 本書は大きく三部に分かれている。第一部は森岡による『ある、なる』の分かりやすい解説。第二部は『ある、なる』をめぐって2015年10月9日に早稲田大学で開催された現代哲学ラボの再現。第三部はそのラボで議論された内容に対する入不二本人による補足、さらに森岡による再考、さらに入不二による再応答、という構成になっている。 『ある、なる』において入不二は「因果的決定論」も「神学的決定論」も採らず、また「物語的運命論」も採用しない。入不二が論じるのは「論理的運命論」である。「論理的運命論」は、他の決定論や運命論とは異なる構造を持っている。すなわち他の決定論や運命論が二項性を持っているのに対し、論理的運命論は単項性を持っている。ここでいいう単項性とは「ただそれだけでそう決まっている」という現実の全一性である。 全一性は唯一性とは異なる。唯一性は複数性を前提としている。現実の唯一性を「複数の可能性があったはずだ」という方向で考えると、現実は複数性を帯び偶然性が立ち現れる。逆に現実の唯一性を「それが全てでそれしかない」という方向で考えると、現実は全一性を帯び必然性が立ち現れる。 また入不二は現実を「相対現実」と「絶対現実」に分ける。「相対現実」とは中身を伴った現実であり、「絶対現実」とは中身を伴わない(無内包の)現実である。「相対現実」は唯一性を持ち、「絶対現実」は全一性を持つ。この「相対現実」と「絶対現実」の果てしないせめぎ合いを、入不二は「あるようにあり、なるようになる」と表現する。前者の「ある」「なる」は「相対現実」であり、後者の「ある」「なる」は「絶対現実」である。 この入不二の運命論に対して、認識論的な立場から森岡は反論を試みる。すなわち入不二の運命論には人称性が欠落していると森岡は指摘するのだが、それに対し入不二は現実にはそもそも人称性はないとしてその反論を退ける。入不二哲学において人間は不要であり、むしろ人間の視点を超越しようとしているところに、入不二哲学の独創性がある。 おそらくはそのためであろうが、入不二は現実と言語の関係については(あまり)論じていない。だが入不二運命論を意味論的に、すなわち言語という切り口から解釈するならば、その正当性はさらに補強されるように思われる。 意味論的に解釈するならば、現実は非現実と対になって初めて顕在化する(もしくは創作される)。非現実を形成するのは言語である。言語とともに虚構が生まれ、可能性が生まれ、偶然が生まれる。ということは自由とは言語によってもたらされたフィクションであろう。過去も未来も、言語が見せている妄想に過ぎない。言語が消滅したときに、ベタな現実が姿をあらわす。と同時に現実は消滅する。なぜなら現実とは、言語によって形成される非現実という背景があって、初めて浮かび上がる「虚構」なのだから。 しかし仮に運命論が正しいとしても、生きて行く途上でわれわれは絶えず選択し、悩み、後悔することから逃れることができない。ベタな現実というキャンバスに、われわれは言語によって自由を描くことをやめられない。なぜならそれがすなわち生きるということだからだ。よって運命と自由は両立する。 敷居が高いと思われがちな哲学であるが、「J-哲学」を標榜して刊行された本シリーズは平易な日本語で書かれており、内田かずひろ氏によるイラストや哲学ラボで使用されたチャートなどもふんだんに盛り込まれている。これまで哲学を敬遠してきた読者にも受け入れられることを期待しつつ、本シリーズの今後に注目したい。
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久しぶりに大ヒットてかホームラン。『あるようにありなるようになる』の解説としてこれ以上のものはないでしょう。入不二ワールドを堪能できます。あるようにを再読したくなりました。現には常に既になんだな。
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