現代語訳 理趣経 の商品レビュー
事柄に関して「少しばかりは解る??」というように解説しているらしい本に出くわすと、手に取ってみたくなるという訳で、真言宗の寺で頻繁に読誦されているという<理趣経>に関する本を読んでみた。このところ俄かに空海、真言宗、密教というような事柄に少し関心を寄せるようになった中、偶々本書に...
事柄に関して「少しばかりは解る??」というように解説しているらしい本に出くわすと、手に取ってみたくなるという訳で、真言宗の寺で頻繁に読誦されているという<理趣経>に関する本を読んでみた。このところ俄かに空海、真言宗、密教というような事柄に少し関心を寄せるようになった中、偶々本書に出くわしてしまったのだ。 既に『全品現代語訳 大日経・金剛頂経』という一冊は読んでみた。「仏教の経典」ということで、所謂“御経”の体裁、「漢文にそのまま読み仮名を振って音読」というような方式の「○○経」というモノも、読み下し文にして現代語訳し、そこに語られる物語、物語が示唆する思潮を知るということも出来ることが判ったのだが、本書もそういうような流れの一冊である。経典には様々な解釈の幅も在って、諸説飛び交っているような場合も見受けられ、その辺の専門的研究も広く深く行われている。そういう専門の他方に「素人が一寸関心を寄せる…」ということも在る訳で、本書はそういう「一寸関心を寄せた」という読者を対象としている。 本書では<理趣経>の、真言宗の寺で頻繁に読誦されているモノを基礎に、読み方や現代語訳を挙げる他、<理趣経>が伝えられた経過や真言宗の寺で盛んに取り上げられるようになった経過、その内容が示唆するモノ、そして「曼荼羅」の画を駆使して僧俗の人達に広く伝えようとしている事柄の解説を試みている。 <理趣経>そのものを初めて日本国内に持ち込んだのは最澄なのだという。その後、密教が注目されるようになっていた中、同時代の空海が唐の長安に行って、当時としては最高権威と呼び得た師僧から密教の精髄を学んでいたことで、最澄は後塵を拝するような感となってしまっていた。そして最澄と空海との間で<理趣経>を学ぶということに関して摩擦が生じたという経過は空海の側から綴られた例を幾分読んで承知している。 <理趣経>そのものは夥しい数の巻から成る膨大なモノで、その抄訳が現在も真言宗の寺で頻繁に読誦されているモノということになるのだが、要は「解釈」が非常に重要な訳だ。最澄は<理趣経>に触れて持ち帰ったのだが、空海のように先達の僧達から学ぶ機会も設けておらず、解釈・研究というような内容の書物を持ち合わせてもいなかった。真摯な求道者として謙虚に学ぶ姿勢の最澄は、自身が一定の地位を得て弟子達も抱えていたような時期に、一介の修行僧というような立場に過ぎなかった、7歳も年下の空海に頭を下げて各種資料を借り受けることを願い出た。空海はそれに応じていたが、<理趣経>の解釈を巡る書物に関する申し出に関しては「少し…違うのではないか?!」と断ったという。以降、両者は互いに距離を取るような感になったという。(<理趣経>を巡る件の他、最澄が密教を学ぶために空海の下に遣わした弟子に関して、弟子が最澄の下へ戻ることを拒むようになってしまい、その件での論争も在って両者の間に溝が開いたらしいが…) <理趣経>は、禁忌とするようなこと、忌避するようなことも全て含めて「人間の営為の全て」を肯定した上で、大日如来が様々な姿を借りて説く教えに従って高みを目指し、自利利他―個人が救われ、人々も救われる―という内容を説いている。その忌避するようなことも全て含む「人間の営為の全て」の中には「性行為」も含まれ、所謂“調伏”というようなことでの「怒りの鉄拳」というようなことへの言及も含まれている。 そういうことなので「誤解」も在り得る内容で、真言宗では「読誦に大変な功徳が在る」として頻繁に<理趣経>を読誦する他方で「慎重な取扱が必要」としているようだ。そういうことなので、空海は「正当に師僧から伝授を受けた自身と共に過ごして学ぶべき内容が<理趣経>で、解釈・研究の書物を精読して足りるのではない」として最澄と衝突したという経過のようだ。 何れにしても、難解とされているような古いモノについて、「一寸関心を寄せた」という一般読者が触れ易いような形に纏めた労作は貴重だと思う。 本書も、手が届き易い場所に置いて何度も読み返してみることになるかもしれない。
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