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創造と狂気の歴史 の商品レビュー

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15件のお客様レビュー

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2019/09/14
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 ラカンは、凶器の可能性を完全に排除しようとするならば、それはもはや人間ではなくなってしまうだろう、と言っています。もっとも、彼の時代には、人間の存在から狂気を完全に排除してしまうことは、空想にすぎない事柄でした。けれども今日では、人間を狂気と無縁のものにしようとするための様々なテクノロジーが開発されようとしています。実際、のうの内部に直接的に電気や磁気の刺激を送って治療を行う脳深部刺激療法はパーキンソン病などですでに実用化され、うつ病や強迫性障害などへの応用が検討されつつあります。(p.28)  厳しい修道生活のなかで、太陽を見てもまったく動いておらず、全然時間が進んでいかないような感覚になる。これは、うつ病の主体的体験とよく似ています。うつ病では、周囲の人々は普通の時間を生きているのに対して、自分にとっての時間だけが遅くなったように感じられ、それゆえ自分だけが周囲から取り残されてしまっているように感じられます。(p.88)  プラトン的なインスピレーションでは神が問題になるのに対して、ヘルダーリンの詩では神の不在が問題になっていることも、これと関係づけることができるでしょう。要するに、ヘルダーリンは、人々がヘーゲル的な狂気の乗り越えによって忘却していたものを、天上の存在からの声としてではなく、自分の足元にあいた大きなブラックホールとして再発見したのです。(p.202)  芸術の歴史において、絵画の技法が高度化することによって、絵画は目の前にある事物を正確に写しとることができるようになった。しかし、描かれた絵画が事物と一致しているかどうか、つまり「本物そっくりに描けているかどうか」は、絵画において審理が生起こしているかどうかとはまったく関係がない。むしろ、絵画は、これまで気づかれていなかった新たな角度から事物を描き、世界と大地の抗争を立ち現れることによって、その事物に対する私たちの見方を一変させる。そうすることによって、絵画は、「不気味で途方も無いものを衝撃的に打ち開き、同時に安心できるものと、人々が安心できると見なすものとを、衝撃的に打ち倒す」のです。ハイデガーはこのことを、絵画という芸術作品は事物をみる私たちの視点を「移動=逸脱(Verrückung)」させ、日常的な物の見方をすっかり変容させてしまう働きをもっているのだ、と要約しています。(pp.211-212)  ドゥルーズ派、「逃走線(ligne de fuite)」という概念をもちいてそのことを明確化しています。起こってしまった出来事に忠実であるのではなく、さまざまな方向に逃げていくこと。ヘルダーリンのように欠損した〈父の名〉や不在の神の痕跡に踏みとどまるのではなく、それとはまったく別のことを考えること。そのように逃走することによって、人生の連続性を断絶させるプロセスを、“breakdown”(故障)ではなく“breakthrough”(突破口)にすることができるーーこれがドゥルーズの主張なのです。(p.288)

Posted byブクログ

2019/08/23

創造と狂気の関係がどのように考えられてきたのか、各年代の考察をまとめた本だと言えます。クリエイティブとは常軌を逸した行為の成果なのか、それともそうでないのか、考えたいときに読んでみると参考になると思います。

Posted byブクログ

2022/09/16

「創造力が病にもかかわらず現れたのか、それとも病のためにこそ現れたのか」ー ヤスパースはかつて創造と狂気の関係についての問いをこのように立てた。本書は、およそこの問いに対する哲学者たちの解釈と理解を通して、狂気の歴史を辿るものである。それは、いわゆる「病跡学」と呼ばれるものの成果...

「創造力が病にもかかわらず現れたのか、それとも病のためにこそ現れたのか」ー ヤスパースはかつて創造と狂気の関係についての問いをこのように立てた。本書は、およそこの問いに対する哲学者たちの解釈と理解を通して、狂気の歴史を辿るものである。それは、いわゆる「病跡学」と呼ばれるものの成果でもある。「病跡学」とは初耳だが、本書の中でも紹介されているヤスパースによる次の定義の通りだ。 「病跡学とは、精神病理学者に興味のある精神生活の側面を述べ、かような人間の創造の原因に対してこの精神生活の諸現象諸過程がどんな意義をもつかを明らかにする目標を追求する生活記録である」 病跡学の対象は芸術家や哲学者であり、注意深くその作品や日記を追っていくことで、精神病理と創造的活動との間の関係をみることができるのである。例としては、クレッチェマーの『天才の心理学』などを挙げることができる。 「統合失調症」はその中でも特権的な位置を与えられてきたという。統合失調症がはっきりと確認できるのは十九世紀以降だという。本書ではデカルトやカントが取り上げられているが、著者によると「統合失調症が近代的主体とともに登場した、と推測できる」という。近代的自我を人間の条件であるとすると、「狂気になる可能性をもつことが、人間の条件である」といえる。 フーコーの『狂気の歴史』によると、狂気に対して寛容で社会の機能として組み込んでいたものが、十七世紀の中頃以降に次第に社会から排除され、不可視なものとされ、沈黙させられたとされる。近代的自我の成立と、狂気の歴史は密接に結びついているというのが、共通する理解でもある。そこから近代的自我に組み入れられないものが創造性として立ち上ってくるときに、それは統合失調症とともに発現する、というのが主張でもある。 さて、それはどういうものであったか。 著名な芸術家の統合失調症の事例としては、ヘルダーリンが有名である。本書でもヘルダーリンにまつわるフィヒテとのやりとりなどが創造と狂気の関係の新しい現れとして解釈される。また、時代を進めて、梅毒による進行性麻痺だったニーチェの創作活動に関しても、その病歴との関係を論じたヤスパースやランゲ=アイヒバウムが紹介される。 やがて狂気にまつわる言説は、「詩の否定神学」として論じたハイデガー、正しく『狂気の歴史』を世に問うたフーコー、そこからフランス思想の潮流に沿ってラカン、アルトー、デリダ、レーモン・ルーセル、ドゥルーズによる「狂気と創造」への比較的ポジティブな評価を述べる。 現在、統合失調症は早晩理性の崩壊に至る不治の病ではなく、脳生理学的な薬物療法が効果的で対応が可能な病気になりつつある。統合失調症がかつて持っていた悲劇的ではあるが、それゆえに一層一瞬の輝きをまとうという特権を剥がされつつある。かつて「狂気」は隠されつつ、不可侵なものとして扱われていたが、現在は近代医学の中で可視化され、医学的分析の対象となってしまっているのだ。統合失調症がその特権をはく奪されるとともに、鬱やASDなどの症状はその範囲を貪欲なまでに広げようとしている。そして、およそ同時にこれ以上言葉を紡ぐことに自制を求めるような自発的な圧力を感じるのである。 本書の意図は届いたのだろうか。この本の対象となる読者はどのような読者なのだろうか、と気になる。「狂気」に直接的に対面することなく、言葉だけで「狂気の歴史」を語り、それを相手に伝えることの不可能なまでの難しさを感じる。本という媒体での限界を感じつつ、『狂気の歴史』の方をいまいちど読んでみるべきなのかもしれないと思うのである(そして、おそらく当分はそうしないのだが)。

Posted byブクログ

2019/07/08

2019年5月3日図書館から借り出し。目次を見ただけで面白そう。もう一度、じっくり読み直したい。2019年7月8日再度読み直し。

Posted byブクログ

2019/03/22

『創造性』と『狂気』の関係はよく取り沙汰される話題ではあるが、本書では、その関係の長い歴史を解説している。 ストレートに読んでも面白いのだが、『病跡学』と呼ばれる分野の歴史が非常に興味深い。

Posted byブクログ