僕はかぐや姫/至高聖所 の商品レビュー
復刊記念。 文庫版だと、単行本と異なり、大分レイアウトが詰まつてゐて、またいくらか最低限ではあれど、筆者本人の手直しが加へられてゐるので、初めて読んだ時のような透明感とはまた違つてみえる。 けれど、ひとりの人間が生きること死ぬこと、存在するといふことを真剣に考へ、表現したといふ事...
復刊記念。 文庫版だと、単行本と異なり、大分レイアウトが詰まつてゐて、またいくらか最低限ではあれど、筆者本人の手直しが加へられてゐるので、初めて読んだ時のような透明感とはまた違つてみえる。 けれど、ひとりの人間が生きること死ぬこと、存在するといふことを真剣に考へ、表現したといふ事実には変りない。かうして何度も読み直して、再び<僕>に出会ひ、<わたし>に出会ふ。読み返すたびに、また出会へる。読書の喜びはここにある。 自分とは何か。存在するとはどういふことか。誰もが一度は必ず考へること。年を重ねれば重ねるほど、その問ひは日々の生活と呼ばれるものの中で流され、蓋をされ、考へられなくなつてしまふ。ひとは何かにならないと生活できないから。17歳とはそんな最後の年齢である。 しかし、時間とは不思議なもので、17歳を過ぎても、存在を考へ続けることはできてしまふ。それが、筆者の生まれついてしまつた性質なのだ。何かに染まつてしまふことはあつても、生地そのものが変容することはない。生地は生地だ。人間は世間で生きる存在であると同時に、世間から離れたところで考へることのできてしまふ存在なのだ。この矛盾こそ、良くも悪くも人間の姿であり、同時に可能性足り得る。ずつと同じではゐられない。けれども、歩いてきたのは紛れもない変らないこの自分。 何かに染まらない人間などゐない。けれど、何かに染まり続けられる人間も同じやうにゐない。ならば仕方なし、笑つて泳ぎきつてみせやうではないか。この後、粗茶シリーズのところまで筆者は歩いてきたのだ。時間のモデルを生きてみせることこそ、生きたおとなの役目だと思ふ。
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女子高生と女子大学生をそれぞれ主人公とした二作を収録している。 抽象的で観念的な、けれど確かにある感情や思考を描いていて、読む人によっては馬鹿げているように見えるかもしれないけれど、感傷のようでしっくりきた。 2019/7/26
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今から26年前の私が当時中学生だったころであった作品。上條敦士氏の表紙に惹かれ読んで衝撃を受けたことを思い出した。自分のことを「僕」と名乗る主人公に共感。表紙カバーが二重になっておりめくると色違いのイラストが現れる。長年絶版だったが復刊してくれて嬉しい。
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百合要素ありの2作品。1992年に出た復興版。1つは、芥川賞受賞作。もう1つは、三島由紀夫賞。贅沢なラインナップだった。設定が昭和だと思うが、主人公の少女たちの感覚は、今とさほど変わりません。アイデンティティの喪失に対する危機感というか、青春の一コマというか、細部にわかって、よく...
百合要素ありの2作品。1992年に出た復興版。1つは、芥川賞受賞作。もう1つは、三島由紀夫賞。贅沢なラインナップだった。設定が昭和だと思うが、主人公の少女たちの感覚は、今とさほど変わりません。アイデンティティの喪失に対する危機感というか、青春の一コマというか、細部にわかって、よく内面まで深堀りされている秀作でした。「僕はかぐや姫」の方が、好みでモチーフは深かった。両作品とも当たりです。 http://muto.doorblog.jp/
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