初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海 の商品レビュー
海上自衛官であり軍事史の専門家でもある研究者が、初の国産軍艦である「清輝」のヨーロッパへの航海について記したもの。「清輝」がヨーロッパ航海を行ったのは明治11年であるが、明治維新を成し遂げた日本が、自ら建造した軍艦を日本人のみで行った1年3ヶ月に及ぶ困難な航海を、緻密な研究を基に...
海上自衛官であり軍事史の専門家でもある研究者が、初の国産軍艦である「清輝」のヨーロッパへの航海について記したもの。「清輝」がヨーロッパ航海を行ったのは明治11年であるが、明治維新を成し遂げた日本が、自ら建造した軍艦を日本人のみで行った1年3ヶ月に及ぶ困難な航海を、緻密な研究を基に、わかりやすく説明している。イギリス、フランス、イタリア、トルコなど欧州諸国を訪問し、トルコ皇帝に謁見したり、レセプションを実施したり、入渠し修理を行ったりと様々な活動をしている。各国海軍には歓待を受け、大きな実績を残すとともに、様々な情報を収集し以後の日本艦船寄港の貴重な資料を作成している。その功績が極めて大きかったことがよくわかった。艦長等高級士官のみならず、明治の時代には様々な人々が大きな仕事をしていたことに驚かされた。 「「清輝」の進水(明治8年3月5日)の際には進水式が挙行され、明治天皇が(横須賀の造船所に)進水式に行幸した」p19 「(「筑波」のサンフランシスコ訪問(咸臨丸の16年後))咸臨丸乗員の日本服姿を記憶するサンフランシスコ港の人々は、全然欧式海軍に変わった筑波の威容に対して、驚きの眼を見張った」p70 「清輝の寄港は、イギリス植民地における現地の人たちには羨望のまなざしで見られていた部分も多くあり、クムラスワシー(コロンボの名士)のいう「日本はアジア人民の開明の先導」であることを印象付けたものだった」p104 「(ヘラルド紙面)「清輝」の甲板上の索具等はきれいに整頓されて清潔であった。乗組員は士官から水夫等に至るまで皆敏捷で、適材適所に配置されている。この艦がいずれ我がイギリス軍艦に拮抗するというも、あながち不可能ではないだろう」p135 「「清輝」の後に日本軍艦が、スエズ運河を越えたのは、12年後、1890(明治23)年12月である。それは、その年9月に和歌山沖で遭難したトルコ軍艦エルトゥールル号の生存者を本国へ送り届けるため「比叡」と「金剛」がトルコを訪れた航海である」p170
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