三河国名所図絵 の商品レビュー
・「三河国名所図会」がほしいと思つてゐた。それは当然和本であつた。幕末のいつの頃かにそれは上梓されたはずであつた。例の秋里籬島などが名所図会を出版してゐた頃である。その後に作られたと思つてゐた。だから、絶対に安くはないと思つたが、それでも一向に見つけられなかつた。そん な時、ある...
・「三河国名所図会」がほしいと思つてゐた。それは当然和本であつた。幕末のいつの頃かにそれは上梓されたはずであつた。例の秋里籬島などが名所図会を出版してゐた頃である。その後に作られたと思つてゐた。だから、絶対に安くはないと思つたが、それでも一向に見つけられなかつた。そん な時、ある高校の図書館の蔵書に「三河国名所図会」があつたのである。ただしそれは和本ではなく、ハードカバーの三巻本であつた。長い間、閉架のあまり風通しのよくないところに置かれてゐたせゐか、本文は湿気で波打つが如くであつた。汚れてゐるわけではないので読むに支障はなかつた。読みにくいだけである。それでも、今ひとつその本を読む気にはなれなかつた。さうかうしてゐるうちに、版本「三河国名所図会」は出てゐないのではないかと思ふやうになつた。先 の閉架の本が出版された唯一のものではないかといふのである。探しても見つからないのは探し方の問題ではなく、存在しないからみつからないのだとやつと気がついたのである。それ以後も、結局、これに関しては何も見つけられずにゐた。ところが、松岡敬二 編著「絵解き散歩 三河国名所図絵」(風媒社)が 出た。これによると、「可敬没後70年が経過した1931年(昭和6)に愛知縣教育會の尽力により、稿本および写本の蒐集と編者夏目可敬系譜の調査が進め られ、1933年に『参河国名所図絵』上巻、翌年中巻、下巻が出版された。云々」(3頁「はじめに」)すると、私が見た三巻本はこれであつた。やつと昭和に入つて日の目を見ることができたのであつたが、絵師の関係で「絵の写実性は高くはなく、地誌としての絵解きの精度を下げたものとなっている。」(4頁) とか。尾張国名所図会を見ることはある。明治版が混ざつてゐるが、さういふものであるらしい。しかしこれは尾張国の書、全巻翻刻もされてゐる。だからあまり気にしなかつたのだが、三河国は昭和になるまでまとめられることはなかつたのであつた。ちなみに、可敬は吉田の人、上伝馬の金物商の四代目であつたらし い。このために三河国とはいふものの、西三河は少なく東三河が多くなつてゐる。完成すれば西も今より多くなつたのかもしれない。その意味で本書未完は残念 である。 ・これを見て最も納得できたのは豊川河口である。「古代『しかすがの渡』を復元」(30頁)といふのがある。有名な歌枕しかすがの渡しはどこかを述べる。 名所図絵の絵だけではよく分からないのだが、古代豊川河口のイメージ図を見るとある程度見当がつく。菟足神社のすぐ近くまで河口が広がつてゐたらしい。現在、しかすがの渡し跡とされてゐるのは踏切近くである。なぜこんなところにと思つてゐたのは、河口の大きさが分かつてゐなかつたせゐである。あれだけ河口が広がつてゐれば、あの踏切の近くはありうる。こんなにも、たぶん菟足神社直下まで河口が入つてゐたのである。これに対して吉田城下の豊橋辺り、船町は 「吉田川の舟運」(68頁)等としてまとめられてゐる。この絵を見て、改めて船町の繁栄を思ふ。この絵の通りだとすれば、船町は川と海の一大拠点だつた。 この時代になれば、河口は一部で埋め立てられて新田ができてゐよう。お城下は人や荷物の送り出しに大忙しであつたのであらう。吉田は他の書からの借用が多い。例の吉田橋の図や天王社の花火の図などは吉田名蹤綜録からの借用である。適当なのがないといふことであらう。ただ、それにしてもかうして絵解きがついてゐれば印象が違ふ。私には幻の「三河国名所図絵」であるが、かうして一部なりとも見ることができてうれしい。全3巻、そろつて復刻されんことを。
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