存在と時間(5) の商品レビュー
人間は普段、日常生活において現実世界に頽落してしまっている。つまり、人間本来の姿ではなくなってしまっている。 それが、不安によって、本来の自分が見えるというのがハイデガー( 1889年9月26日 - 1976年5月26日)の主張。 フロイト(1856年5月6日 - 1939年9月...
人間は普段、日常生活において現実世界に頽落してしまっている。つまり、人間本来の姿ではなくなってしまっている。 それが、不安によって、本来の自分が見えるというのがハイデガー( 1889年9月26日 - 1976年5月26日)の主張。 フロイト(1856年5月6日 - 1939年9月23日)も、不安という現象が人間の精神を深いところで刻印していると考えていた。同時代の人がこういうことを考えるのは面白い。 この考え方は映画「マトリックス」(1999年)の「カプセルの中で眠っている本当の自分」と「機械が作った仮想世界で生きている自分」に置き換えるとわかりやすい。 赤いカプセルと青いカプセルのいずれかを選び、赤いカプセル(「存在と時間」の論にあわせるのなら「不安」)によって、本当の自分に戻ることができる、ということだ。 キルケゴール、フロイト、ハイデガーの不安の概念について。 キルケゴールとハイデガーの不安の概念。 共通点は、不安によって負い目の概念が生み出し、それが良心の呼び声として現存在に自己の自由と本来的な可能存在に立ち戻らせる。 フロイトの不安の概念は精神分析の観点。抑圧からうまれている。恐怖症、去勢不安、愛する母や父に対する攻撃的な欲望をいだくことから生まれる不安。これはキルケゴールやハイデガーの不安とは違う。 ただし、フロイトの「不気味なもの」という概念はハイデガーの「不気味なもの」と共通する要素がある。 ハイデガーの「不気味なもの」は、死に対する不安。 死ぬということは、現存在が死ぬということだ。 世界において自分がいることによって存在していた可能性がなくなる。逆に、世界にとってもその人がいることによって存在していた可能性がなくなる。自分が世界を喪失し、世界が自分を喪失する。それが居心地が悪くなるということであり、居心地が悪くなるから、不気味さが生まれる。 フロイトとハイデガーは、居心地の悪さと不気味さについての考え方が違う。 フロイトにとって不安とはネガティブな反応だ。これは一般的にそうだろう。 しかし、ハイデガーにとっては、不安によって人が頽落の状態から覚醒するという意味で、ポジティブな反応としている。 居心地がよい生活は、人が世の中に馴染んでしまっていてよくないというのだ。 不安とは別に、「恐れ」もある。これは具体的な対象があって、現存在を恐れさせるのだが、そこにあるのは自己の喪失の恐れ。つまり不安と同じだ。ただそれが不安であることを現存在が認識しないのは頽落しているからだ。不安によって現存在は頽落から覚醒する。 これまで、現存罪の根源的な開示性として「語り」「理解」「状態性」が考察されてきた。この3つの根源的な開示性は、等根源的なものとして、互いに密接に結びついていた。ただし、これは現存在は、世界の内で頽落して生きているので、3つの開示性を濁らせている。 この辺、フロイトの夢の構造と同じで、本質は夢の中にある。けれど、表面的には別の物事に置き換えられていて、直接的には見えない。 人は、自己について問う。それは未来に向かう行為だ。 「未来」「現在」「過去」という時間的な意味が現存在の「実存性」「対策」「事実性」という3つの根源的な存在、様態を示すものとなる。 現存在は、この世界に頽落していて、周囲に気遣いをしながら生きている。それは自分の過去が影響している。つまり、過去における関係性において現在の関係性がある。それによって気遣いが設定される。
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たとえば絵を描くとか、子孫を残す、文章で表現する、誰かに話す…など何らかの形で 自分自身を証明する ようなことをした場合、(それがたとえ「行為しない」という行為であったとしても)ほぼ必ず自分以外のだれか・何かが関与せざるを得ないだろう。本書の観点でいえば紙も石も人との出会いも、自分自身ですら(それこそさしあたりは)人工的なものである
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