なぜ私は一続きの私であるのか の商品レビュー
読み始めて思いのほか早く読めて(一日で半分以上)いるのだけれど、なにしろ難解なので、途中いろいろ考えたことを忘れそう。 ということで、とりあえずここまでのところをレビューしておく。 著者はてんかんが専門の精神科医なのだけど、著者の書く文章がやや冗長でわかりにくいことも手伝って、...
読み始めて思いのほか早く読めて(一日で半分以上)いるのだけれど、なにしろ難解なので、途中いろいろ考えたことを忘れそう。 ということで、とりあえずここまでのところをレビューしておく。 著者はてんかんが専門の精神科医なのだけど、著者の書く文章がやや冗長でわかりにくいことも手伝って、とにかく難しい。 ってか、哲学と脳科学、精神病理学がこんなにもつながりあっていたとは。文系と理系の違いがあったんじゃなかったかしらと、自分のこれまでの認識を疑ってしまう。大脳生理学とか、自然科学とか、そこらへんもわかってないとなかなか理解できない。 かろうじて私は、実際に精神疾患の患者と接してきているせいか、そのあたりの学問的知識がいまいちでも、巻頭の統合失調症患者の色の分類の研究結果はとても納得感がある。あああ、確かに、そうだね、そうなるわ、と思える。その考察も、彼らの思考(が見えるわけではないけれど、その様子を外からみて想像できる状態)の論理が非常にわかりやすくて、腑に落ちた。ははーん、なるほど、そう理解するとなんだか彼らの思考回路がわかるぞ、と思える。まあでも了解可能な言動であるわけではないのだけれども。 それにしても、兼本先生の文章はどうしていつもこうもわかりにくいのか。学術的な話が続いた中に事例が入ってくるのはいいとして、個人的なエピソードが突然混じったりして、あれ?これは専門書ではないのだっけ?みたいな戸惑いがある。そして表現が回りくどいから、それでなくとも難解な内容がより一層わかりにくいという。 とっても興味のある内容だから、もっとわかりやすく知りたいんだけどな。 難解だけれど、丁寧に読み込んでいってなんとかついていっている感じ。 もっとしっかり勉強してしっかり理解したいな、精神病理学。 <2024.8.13読了後> 精神医学とか脳科学関連の内容が濃いところはわかるんだけど、ベルクソンとかハイデッガーとか出てくると途端に???が先行。そのあとにちょっとだけ例を挙げてもらえたりするとそれはとても興味深く、どうにかこうにかついていく。 表象とはなにかについて、歌手と三角形の例はわかりやすくて、ああ、イデアのことかな、なーんてわかったような気になっていたら、いやいや、イデアなんて話はあえて説明するようなことでもなく、それをもってじゃあ哲学的にどう考えるのか、って話で。 哲学の知識がなさすぎて汗。 でも普遍論争とか、同じものが同じものとして反復する時間を超えた縮約とか、読み込んでいくとそれはそれでとても面白くて、もっとわかりたい気持ちにさせられる。 それから、本書の主旨とはたぶん外れたところになるんだろうけど、先生の専門分野、てんかんにまつわるある症状について。 発作性恐怖という症状は知らなかった。なかなか興味深く、これはパニック発作との鑑別がそれは難しいだろう、と想像はつく。ただ、てんかん専門医であれば検査をせずとも、ある程度診断がつくのだとか。長い間、ある事柄について経験をかさねるということはこういうことなのでしょうね、としみじみ。 全体を通して、全くもって???な哲学的考察と、非常に興味深い事例の紹介と、また私自身がとても納得感のある論述とが入り混じって出てくるため、ある時は眠気に誘われ、ある時は知的好奇心がくすぐられ、ある時は自分の経験を補足してくれるような満足感に満たされるという、かなりアンバランスな読書体験だった。 そうして、言ってしまえば、タイトルの「なぜ私は一続きの私であるのか」について、答えにたどり着いてるのか?これは?という疑問もある。読了したけど、わかんなかったけど?私の知識教養不足、読解力不足なんだろうか。そうかもしれんけども。 兼本先生の読みにくい文章だとしても、すっごく興味の湧く題材なので、なんとか基礎知識から育てていって、しっかり理解できるくらいにはなりたいなあ。 兼本先生の前著を読むか~。
Posted by
難しい!哲学の知識がないと分からない!最低でも前書は読まないと無理なのかもしれない。カントぐらいは勉強してないと何の歯も立たないかも。哲学を勉強したら読み直してみたい。
Posted by
第1章 同じものが同じになる時、同じでなくなる時 第2章 「私」が成立する脳的条件 第3章 物来りて我を照らす 第4章 面前他者を了解すること―精神病理学の営み 第5章 ベルクソンと脳科学 第6章 普遍論争を再考する―馬性は馬性以外の何ものでもない 第7章 行為としての臨床哲学 ...
第1章 同じものが同じになる時、同じでなくなる時 第2章 「私」が成立する脳的条件 第3章 物来りて我を照らす 第4章 面前他者を了解すること―精神病理学の営み 第5章 ベルクソンと脳科学 第6章 普遍論争を再考する―馬性は馬性以外の何ものでもない 第7章 行為としての臨床哲学 付録 脳内散策のための小マップ 著者:兼本浩祐(1957-、島根県、精神医学)
Posted by
私が一続きの私である、というのは決して自明のものではない。「意識」というものを通じて、われわれはどのようにして、この一続きの私を獲得しているのかという問いを、精神病理や哲学の領域から問い直すことがこの本の目的と言えるだろう。著者はその考察の中で、哲学者のベルグソンやドゥルーズ、フ...
私が一続きの私である、というのは決して自明のものではない。「意識」というものを通じて、われわれはどのようにして、この一続きの私を獲得しているのかという問いを、精神病理や哲学の領域から問い直すことがこの本の目的と言えるだろう。著者はその考察の中で、哲学者のベルグソンやドゥルーズ、フッサール、ハイデガーまで援用するが、一方、アントニオ・ダマシオやジェラルド・エーデルマンといった脳神経科学者が得た知見も重視する。 本書の最初に置かれた色見本タグを自由に分類する課題について、統合失調症の患者が普通の健常者とはまったく別の分類をしてみせるという説明は、まずわれわれの常識というものが何らかの当たり前ではない基盤の上に寄って立っていることを示すものだと思う。 「私」の身体的な境界については、オートポイエーシスという概念によって、「自分自身を再生産するための要素である限り体の一部である」と捉えることでうまくいくことが示されるが、意識に立ち上る「私」については何を境界とするのかは課題となる。 そこで、著者はエーデルマンの神経細胞群選択説(TBGS)を使い、「意識の構成要素はニューロンの再入力」であると定義する。「再入力」は今般のマシーンラーニングにおける多層ニューラルネットワークにも通じているようで興味深い。ニューロン同士の再入力の生成には大脳皮質と視床を必要とするため、いわゆるコア意識を保有するためには、鳥以上の脳を持つ必要があるとされる。 少し長い引用になるが、次が著者の立場を示すものと言える。 「実際には、動物においても表象が成立するためには、双方向性の再入力の存在は必須であって、入力ポートからの刺激の取り込みそのものが決してランダムに公平に行われるわけではなく、必要に応じて極めてバイアスがかかった仕方で刺激は取捨選択されています。むしろ脳という機関はどのようなバイアスをかけて情報を取捨選択するかに特化したといってもいいほどの労力を情報の絞り込みにかけており、この双方向的な再入力の循環を通して、特定の臨界点において一挙に表象が成立するのだと仮定しなければ、物質から意識への跳躍は説明できないというのが再入力を重視する私達の立場です」 意識の問題を哲学的に考えるとき、西田哲学が出てくるのは比較的よくあることだが、ここでも「物来りてわれを照らす」という西田哲学の有名な言葉が引かれている。西田幾多郎はどこかで読むべき本なのかもしれない。 著者の過去のマッチ箱収集の趣味や、若いころに惹かれた神田理沙『十七歳の遺言』など、個人的な体験が混ざり、終わりにいくに従い、どことなく焦点がぼやける感じもあるが、臨床精神医学者が哲学の知見や最新のエーデルマンらの研究などを通して「私」とは何かについてまとめるやり方は面白い。フッサールやベルグソンがその時代に突き詰めて考えたことも、時代を超えて大事で示唆のあるものなのだろうなと改めて思えた。
Posted by
これはSNSで新刊予定が紹介されていて、気になっていたもの(その割に暫く積んでいたが……)。 予想していた内容とは方向性が違っていたが、これはこれで面白かった。終盤のコレクター的なエピソードは、『デイリーポータルZ』で紹介されていた『Amazonの箱コレクター( https://...
これはSNSで新刊予定が紹介されていて、気になっていたもの(その割に暫く積んでいたが……)。 予想していた内容とは方向性が違っていたが、これはこれで面白かった。終盤のコレクター的なエピソードは、『デイリーポータルZ』で紹介されていた『Amazonの箱コレクター( https://dailyportalz.jp/kiji/160825197266 )』を思い出してしまうw
Posted by
- 1