詩集 存在確率 の商品レビュー
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このひとの詩集なら買ふしかない。中身やタイトルなど関係なしにさう思つてすぐに買つた。 『僕はかぐや姫』から『至高聖所』へ。そしてその後続いてゆくたくさんの作品たち。その最初期に書かれたこれらの詩たちは、ことばを探しては彷徨ひ、何度も手探りでことばを求めるひとりの人間の姿で満たされ...
このひとの詩集なら買ふしかない。中身やタイトルなど関係なしにさう思つてすぐに買つた。 『僕はかぐや姫』から『至高聖所』へ。そしてその後続いてゆくたくさんの作品たち。その最初期に書かれたこれらの詩たちは、ことばを探しては彷徨ひ、何度も手探りでことばを求めるひとりの人間の姿で満たされてゐる。 矢や稲妻が一瞬にして貫き射止めるやうな、さういつた形を探してゐたのかもしれない。ひと言で自分を殺し、一度摑まへたからには離さない、さうした何かを求めて書きつづけたゐたのではないかと思はずにはゐられない。 失くしたくないこの一瞬を何とかとどめやうとして、けれど、とどめることはできず、ただ過ぎてゆくのをなす術なく眺める。同じ様に大切なひとたちもさうしたひとつの泉を囲んでゐた。 いつまでも一緒にはゐられない。だけど、失ひたくなかつた。どこかでつながつてゐると信じてゐた。少しずつ囲んだ者たちは泉を去り、歩んでいく中で、取り残されれば取り残されるほど、静かな慟哭だけがひとり木霊する。 さうして気がついた時は、この自分さへも、この泉を去らねばならない日が来てしまつたのだ。 しかし、泉はなくなることはない。たとへ自分がゐなくなつたとしても、また同じ様に誰かがきつとその泉を見つけ出す。自分がはぐくみ、出会へたやうに。 この詩集について、書いた当時から少なくない時間が流れたことだと思ふ。そのことを今、松村さんがどのやうに思つてゐるのか、あへて何もことばは添へられてゐない。 けれど、さうした希望の墓標として、この詩集を託してくれたとするなら、どこかで泉は今も枯れずに水を湛へてゐるだらう。
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