アウトサイド・ジャパン の商品レビュー
アール・ブリュットやら、近年さまざまな呼称で語られることの多い分野だが、個人的にはアウトサイダー・アートがしっくり来る。実際に展示も見に行ったが、作品・生きざますべてに唯一無二を感じさせる。備忘録として購入。
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アートの範疇に入れていいのか疑問の作品も多いけど、過剰な熱量がガラクタをアートに変容させる瞬間があるのは確か。“日本のシュヴァル”は一度見てみたい。
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自らを表現者とすら認識しない人たちの表現に対して大雑把に名つけられた呼び名を「アール・ブリュット(生の芸術)」というらしい。日本のそういう人たちを100人以上紹介している。 私の自宅からしばらく歩いたところに、手作りの木彫りのオブジェがたくさん塀の周りに並べてある家があった。これ...
自らを表現者とすら認識しない人たちの表現に対して大雑把に名つけられた呼び名を「アール・ブリュット(生の芸術)」というらしい。日本のそういう人たちを100人以上紹介している。 私の自宅からしばらく歩いたところに、手作りの木彫りのオブジェがたくさん塀の周りに並べてある家があった。これもアール・ブリュットなんだろうな。いつの間にか撤去されていたが、作者はお亡くなりになった? 「本書に登場する名もなき表現者たちは、周りの評価に縛られることなく自分の人生を謳歌している」と最後の解説にあったが、その通りだと思う。プロの洗練さはないが、逆にその猥雑さでこちらを圧倒するのだ。
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展覧会の図録としても。読んでから見るか、見てから読むか。憧れ、異形、描く、過剰装飾、家族、老人芸術、セフルビルド、廃材、楽園、ヘアサロン。これだけの数集めるのは凄すぎるぞ135組。
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スギノイチヲなどという南伸坊や清水ミチコのコピーでしかない人をどうしてここまで取り上げてるのか、なぜダダカンをアウトサイダーとしているのか、など、よくわからないところが多い。 アウトサイド・ジャパン展にも行ったし、ストレンジナイトの壮絶な生き様には驚愕したし、他にも素晴らしい作品...
スギノイチヲなどという南伸坊や清水ミチコのコピーでしかない人をどうしてここまで取り上げてるのか、なぜダダカンをアウトサイダーとしているのか、など、よくわからないところが多い。 アウトサイド・ジャパン展にも行ったし、ストレンジナイトの壮絶な生き様には驚愕したし、他にも素晴らしい作品が多くあって本当に感動したが、この著者のことがどうにも好きになれない。展示のメインビジュアルのセンターに誰よりもでかく自分の写真を載せるキュレーターなんているか??
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「世間にはいろんな人がいるんだなあ」と相田みつをが語ったかは定かではないが、いわゆるアウトサイダーアートを通じて、この国にはこんな面白い人たちがいるんだということを本書は教えてくれる。 いわゆるアウトサイダーアート/アール・ブリュット(美術史の中ではほぼこの2つは同概念と言って...
「世間にはいろんな人がいるんだなあ」と相田みつをが語ったかは定かではないが、いわゆるアウトサイダーアートを通じて、この国にはこんな面白い人たちがいるんだということを本書は教えてくれる。 いわゆるアウトサイダーアート/アール・ブリュット(美術史の中ではほぼこの2つは同概念と言ってよい)は、何らかの精神疾患等を抱えた患者により生み出された芸術作品と通俗的には理解されていることが多いように思う。しかし、その本来の意味は、特定の芸術的教養や教育を受けていないアーティストによる作品を指すものであり、それは通常のハイ・アートのテキストの網目には全く引っかからない作家によるものをすべて対象とする。 さて、本書では、特定の対象に対する尋常ではない憧れから生まれた独自の創作物や、自ら/外的な対象を異形化させる創作物、本来の意味を超えた明らかに過剰な装飾物、セルフビルド建築物など、日本全国津々浦々の作家と作品が紹介される。 どれも通常の美術的な価値観からはぶっ飛んだ作品ばかりであり、全く興味をそそられないものも多いが、いずれにせよ、なぜその作家がその作品を作るのか、という動機も本書では説明されており、創作意欲という欲求の幅広さを改めて感じる。
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またメチャクチャな本が発売された。アウトサイダー・キュレーター櫛野展正の単著『アウトサイド・ジャパン』だ。おしゃれなブックデザインにキワキワな135人が収録されている。前著『アウトサイドで生きていく』に続き、感想を述べるのは簡単ではない。それは、ぼくが説明する言葉を持ち合わせてい...
またメチャクチャな本が発売された。アウトサイダー・キュレーター櫛野展正の単著『アウトサイド・ジャパン』だ。おしゃれなブックデザインにキワキワな135人が収録されている。前著『アウトサイドで生きていく』に続き、感想を述べるのは簡単ではない。それは、ぼくが説明する言葉を持ち合わせていないからだ。しかしながら、臆することなく表現すれば、大半がなんとも奇妙で、不気味としか言いようがない。暴走する妄想、生命感を刻む文様、縄文土器のような形相は、どれも執着と気迫のカタマリだ。 いちど櫛野主催のツアーに参加した。本書でも紹介されている生亀光明のタワーとイラストで埋め尽くされた小林伸一の自宅をじかに見ることができた。一戸建てに押し入るツアー参加者に、ふたりの老人は本当に親切だった。小林においては、ツアー参加者全員にこれでもかというほどの菓子をふるまった。ぼくはこの無垢な老人との距離感に戸惑いながら、帰路についたことを覚えている。 ぼくはこの本を落ち着いて読めない。それは文明や資本主義の色眼鏡でみてしまうからに他ならない。モダンで清潔なものに慣れすぎて、あまりにも人間くさい描写がおどろおどろしく思え、その背後には社会的な死も感じる。たくさんのものを失うかもしれない、身体が不自由になるかもしれない、貧乏になるかもしれない、大切な人を失い孤独になるかもしれない。不安定な世の中で、運よくかろうじて生きているぼくにとって、アウトサイダー達は恐ろしく、向こう側の人達だと思いたいのだ。いっぽうで、ぼくは彼らにすがりつきたい。どこかでそれを感じている。色眼鏡も外したい。だから、このような生き方を知るだけでも救われる。 見方を変えるには、櫛野のいうように何かしらの「欠損」がカギだ。では、「欠損」なくして超えるすべはないのだろうか。ストレンジナイトのように社会的な属性に頼らない役割を演じるのは難易度が高い。でも、遠藤文裕のように半勤半芸なら少しは真似できるかもしれない。「地球上に残されている最後の資源は想像力」とJ・G・バラードがいったように、想像力に何かを掛け合わせれば可能性を広げられるはずだ。この本にはヒントが詰まっている。櫛野が各章で綴ったイントロダクションはマニュアルであり、紹介される135名は実践例なのだ。少なくともぼくにとって、この本は生き方の指南書になりそうだ。
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