シャッフル航法 の商品レビュー
死体を観測する人がいて、死体の運行を克明に跡づけられたら、それは死文学になるのか。いやさ、死文学では死人が書いた小説になってしまうのか。人文学はだから人体観測を基礎に行うもので、純文学は純体観測を旨とする。 では純体は右向きか左向きかと問うてしまうと、それはオリオン座が右向い...
死体を観測する人がいて、死体の運行を克明に跡づけられたら、それは死文学になるのか。いやさ、死文学では死人が書いた小説になってしまうのか。人文学はだから人体観測を基礎に行うもので、純文学は純体観測を旨とする。 では純体は右向きか左向きかと問うてしまうと、それはオリオン座が右向いたか左向いたか話しているこの短編の僕とリオみたいになってしまうだろう。つまり、ということはつまらなくはないということだが、つまり、この短編というのは「内在天文学」というのであって、「内在死文学」ではないのだ。内在死に関する文学ではなく、認知的ニッチに関する文学らしいが、宇宙の果てのレストランでは、ほれ、あのアダムズではないか。ワープ鴨の宇宙クラゲ包み火星樹の葉添え異星人ソースを前にして「イグノラムス・イグノラビムス」はもう次の短編だ。 でもワープ鴨が素晴らしく美味いのは話の導入に過ぎず、主人公である宇宙食材の調達業者である「私」がセンチマーニと呼ぶ、ヘプタポッドのような異星人の話は離して、「シャッフル航法」についての予見を述べたい。 そんな航法では頭とお尻の順番が滅茶苦茶になって到着してしまうだろう。確かに、なにが、まったくわからないではないかと、困った、とうやって、きっと、自分自身の体が、それでは、どこに、到着するのか、できなくなるからだ、どうなってしまうのか、そんな心配を覚えることも。バリバリバリバリ、ガンガンガンガン、やめときな、そんな航法。はーい、「φ」。 段落が世界で その世界が 縮んでく それで みな φ 「つじつま」では息子が産まれない。産まれないまま成長する。成長して色々する。 「犀が歩く」、喫茶店の店員と客と星図といない犀の漫然とした日常。 僕と彼女と千年後と論理階層をかじる海狸、「Beaver Weaver」。 「俺だったら、台詞ではじまるような話は書かない」という台詞ではじまる話、「(Atlas)3」。 テキスト・ベースのシミュレーションと人生がほぼ一緒、「栗鼠を実装する」。 この円城塔という小説家は勝手に円城塔を名乗って、円城塔のふりをして、円城等名義の小説を書き、それを勝手に円城塔作品として売ってしまっているということが、いまわかった。「Printable」。
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円城塔は描写が薄い、ちょっと薄すぎやしないか。それで小説として成立させている点はある意味凄いのかもしれないが。
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表題作、シャッフルシャッフル訳が分からなかった。 円城さんは頭で考えて書いている気がする。発想は独創的で面白いけど、表現と語彙がいまいちしっくりしない。
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やっぱり円城塔は読みにくさを感じるけど、短編ならば心地よい難しさといった感じ。あまりSF染みてない、ファンタジー寄りの作品の方が心を掴まれるかな、個人的には。『犀が通る』とか『(Atlas)3』あたりは読み易くて好みだった。こういう"自己"について問いかけてく...
やっぱり円城塔は読みにくさを感じるけど、短編ならば心地よい難しさといった感じ。あまりSF染みてない、ファンタジー寄りの作品の方が心を掴まれるかな、個人的には。『犀が通る』とか『(Atlas)3』あたりは読み易くて好みだった。こういう"自己"について問いかけてくる作品をもっと読みたい。
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「内在天文学」★★★ 「イグノラムス・イグノラビムス」★★★★ 「シャッフル航法」★★ 「Φ」★★★★ 「つじつま」★★★ 「犀が通る」★★ 「Beaver Weaver.」★★★ 「(Atlas)^3」★★★ 「リスを実装する」★★★ 「Printable」★★★
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思えば初期「Self-Reference ENGINE」「Boy's Surface」「オブ・ザ・ベースボール」から約10年なのだ。 作風は拡がったり膨らんだりしているとも言えるし、堂々巡りしているとも言える。 文体の実験、メタ意識、抒情。 すべて筒井康隆を連想してしまい、円城塔自身は筒井康隆を敢えて避けていると言うが、短編ではどうしても共通するものがある。 しかし筒井のドタバタハチャメチャコミカルとは違うリリカルコミカルな味付けなのだ。 もっとはっきりいえばエモい。 また、所々に差し挟まれるハリウッド映画的な身振り手振りの小気味良さは、人物を記号的に扱う思い切りの良さがあるからこそなせる持ち味なのだろう。 また作中人物が自分は作中人物であると意識する頻度は、筒井よりも高い。 筒井ほど作風の幅は広くないが、ある領域の作風の中では豊かな味を出している。 以上、何も言っていないに等しい駄文だが。 初期のボーイ・ミーツ・ガール感から、いったん遊離して思考実験やスペースオペラに逸れていたが、再度ボーイ・ミーツ・ガール感覚に戻ってきたらなんと今度は彼女は妻になり子も生れたり、さらには子がとんでもないものであったり妻子とは別れていたり。 極めて無理やり私小説的味わいを引き出すことも、できなくはない、か。 執筆時期からして「プロローグ」「エピローグ」は表裏一体ではなく、「シャッフル航法」を足して三位一体と見方を改めなければなるまい。
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ひと月ほど昔の読書内容が、当該の書籍のページを繰りな押しても全く浮かばないのは、私がぼけたからだろうか。 「イグノラムス・イグのラビムス」の章に「言葉そのものの問題ではない。まさに『君』が、その発言をするという所が問題なんだ。人間が『自分はキリンだ』といったとしても別に問題...
ひと月ほど昔の読書内容が、当該の書籍のページを繰りな押しても全く浮かばないのは、私がぼけたからだろうか。 「イグノラムス・イグのラビムス」の章に「言葉そのものの問題ではない。まさに『君』が、その発言をするという所が問題なんだ。人間が『自分はキリンだ』といったとしても別に問題は起こらない。キリンが『自分はキリンだ』と言い出したとしてもまあいいだろう。しかし、カバが『自分はキリンだ』といいだしたなら、事態は戦慄的なものとなり、森の仲間も大宴会だ」 この部分で、大いに笑い納得したはずなのだが、なにも浮かばない。この浮遊感はなんだろう。これが円城君なのだろうか。とわけわからんことをつぶやいてしまいます。
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単行本以来で読み返してみると、これ以後の『プロローグ』、『エピローグ』、『文字渦』と直結する内容だったんだなあ。それぞれのエッセンスを単品で味わえる。手法に重きを置いたように見える短編かなと思っていると、かえってそちらの方がエモーショナルで不意を突かれる。
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文庫化。 最新作の『文字渦』から遡る形になった。『テクスト』から『文字』という存在そのものにテーマが移るのは必然だったのかもなぁ。
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