差別はいつ悪質になるのか の商品レビュー
なるほどいろいろおもしろい。まずこれをみんなでいろいろつついてみるのはよかったと思うけど、研究者の数が少ないのよねえ。
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「差別はいつ悪質になるのか」というタイトルだが、厳密には「区別はいつ悪質になるのか」だろうか。どの社会でも人のなんらかの属性にもとづいて人をカテゴリーに分けるということをしているが、そうした「区別」のうち、許容可能な「区別」と悪質な「差別」はどこで分岐するのか、何が違うのかが検討...
「差別はいつ悪質になるのか」というタイトルだが、厳密には「区別はいつ悪質になるのか」だろうか。どの社会でも人のなんらかの属性にもとづいて人をカテゴリーに分けるということをしているが、そうした「区別」のうち、許容可能な「区別」と悪質な「差別」はどこで分岐するのか、何が違うのかが検討されている。筆者の論理は明確で、「区別」が「差別」となるのは、その「区別」が特定の人びとの価値を下げる(「貶価」という訳語が当てられている)ような場合とのこと。内容が難しいというよりかは訳があまり読みやすい文章ではないのが難点だが、各章の冒頭には米国を念頭においた具体的事例が列記され、それらを検証していくというスタイルなので、筆者がどういう「区別」あるいは「差別」を念頭におきながら論を展開しているのかは分かりやすい。
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ものすごくざっくり言うと、人間は平等な道徳的価値を持つことを前提に、人を貶めるようなやり方で区別することが悪質な差別である、というのが内容。そしてどういった区別が貶めることになるのかというと、対象の集団が差別されてきた経緯があって社会的地位が低く、さらにその区別するシチュエーションの文脈が道徳的に対象集団を下位に置く場合、とのこと。 著者が上げている実例で「直感的に理解される」としているものにも結構、え?そうなの?そうか?と感じるところがあり、それはまさに著者と私の生きる文化の「文脈」の違いということなのかもしれない。もしくは私はこういった分野に明るくないから、無知というそれだけの話なのかも。 私がかなり疑問に思うのは、「差別かどうかは、ある特定の特色をもつ人々に対する酷い処遇の歴史と現在の社会的地位が関連している」というところで、歴史と地位とは主観的な要素ではないか、ということだ。 特に歴史はそうだ。歴史とはつまり事象の拾い上げとその解釈の連なりなわけで、いかようにも姿を変える。地位にしても、被差別集団が優遇されているかどうかという見方は意外と印象と切り取り方が影響するものだ。だからこそ、フェミニズムはじめポリコレに対するカウンターのような動き、「本当に虐げられているのは自分たちだ」というストーリーと設定が生まれてある程度支持されているのだと思う。 この理論は何かを説明しているようで、実際には何も解決しないような印象を持ってしまった。 なぜこうなるんだろうと思ったが、この本を読んでいると論の組み立てがそもそも「私たちが○○に比べて××は悪質だと感じるのはなぜか」のような問題提起になっており、直感的な感情に理屈をつけることを目的としているように思われる。 いろいろな箇所で「例外はある」というのがいちいち言われているし、実際読んでいて「でもあれは違うじゃん」「じゃあこの時はどうなるんだよ」としょっちゅう思うのだが、この差別は悪質だ、という結論から出発しているから齟齬が多く出ているのではないか。 3章では客観性について触れているが、法や道徳と同じようなもんだし考えていけばちゃんと分かってくるでしょ☆みたいなノリなので本当に信用できない。それ、現状でも言えるのか?理想が有効ならOKって本当か? 結局差別って単なる主観なの?という暗澹たる気分になる。 差別することに合理性があっても、差別者にその意図がなかったとしてもそれは道徳的に正しいことにはならず、「悪質な差別」になりえるという第Ⅱ部は内容自体はわかるんだけど(意図の問題については、それを安易に認めていいのかという問題は残るが)、実際にこれらの状況で問題にされているのは「道徳的に問題があるかないか」ということではなく、合理性や行為者の責任の限界に反差別の道徳が「優先するかどうか」ということではないのか?と思う。 結局そうなると著者が冒頭で素通りした、人間が平等な道徳的価値を持ち、お互いの尊厳を損なわないよう扱わねばならない、という部分に論点が帰っていくように思われる。それはどの程度まで強い原則なのか、そもそも(神以外に)いったい何の後ろ盾あってそういうことになったのか。私が分からなくてこういう本を読むのも、そこが知りたいからなのだ。 そこを自明とせず論証しなければ、功利主義みたいな論理に本当に対抗することはできないのではないか。
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