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ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義 の商品レビュー

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2024/03/04

「アンチ・オイディプス」は、いわゆる現代思想の一つの到達点的なイメージがある。わからないことで有名な現代思想の到達点であるから、わからないことにおいても頂点だ。(「千のプラトー」よりはマシかも) 原著の出版は翻訳が出たのは1972年、日本語翻訳が出たんはたしか80年代後半。日本...

「アンチ・オイディプス」は、いわゆる現代思想の一つの到達点的なイメージがある。わからないことで有名な現代思想の到達点であるから、わからないことにおいても頂点だ。(「千のプラトー」よりはマシかも) 原著の出版は翻訳が出たのは1972年、日本語翻訳が出たんはたしか80年代後半。日本語版の最初の4分の1くらいは我慢して読んだが、そこで挫折。以降、40年間くらい積読状態になっていた。 著者の丁寧の読解を通じて、なんとか読んだ気になった。 と言っても、この本がまた結構難しくて、わからないところはまだ多い。この本が何についての本なのか、それは標題にあるように「精神分析」と「資本主義」の本なのはわかるのだが、それがどう関係しているのか、そこの何を著者が問題視してい流というところまではわかったというレベルかな。 いわゆるポストモダーン的な多元論、相対論ではない。今の資本主義システムにどう抵抗するかという目的に向かっての戦略論、戦術論のような本なんだな。 今から50年以上前の本だが、その後、世界が経験したことを理解するフレームとして古くない。今だからこそ、やっとわかる議論もあるに違いない。 昔は、ドゥルーズ=ガタリの思想とドゥルーズ自身の思想の差とか全くわかってなかったが、徐々にその辺りに見えやすくなっているような気がした。 講義に関する聴衆とのやりとりがなかなか緊張していた。そういうやりとりを本に残すのもなかなかのものだと思った。結局のところ、なんでこんな難しい、意味不明な書き方をするのか、誰に対して議論をしているのか?ということかと思う。 著者は、フランス現代思想を理解するには、周辺の知識をかなり必要とするし、辛抱強く文章を読んでいく必要があると言っていて、それはその通り。 でも、ここまで難しい書き方をしたら、理解できる人はそんなにいないだろうし、誤解もたくさん生じるであろう。この本が、ある種の革命の呼びかけみたいなものだとすれば、誰に伝わるんだろうというのは、やはり素朴な疑問として残るかな。

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2021/12/11

精神分析の親子の3者の関係ではなく社会まで拡大してとか「機械」とか言いたいことはわかるんだけど、でも「ここにエディプスがある」という状況を何度も経験してしまうと、もうエディプス抜きで物事を捉えることから離れづらい。 (そもそも言ってることがわかってないから離れられない)

Posted byブクログ

2024/06/22

2016年から2017年にかけておこなわれた著者の講義をまとめた本で、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の文章を引用して解説を加えながら、この書が全体を通じてなにを意図しているのかということを明らかにしています。 日本語で読める『アンチ・オイディプス』の解説書には、す...

2016年から2017年にかけておこなわれた著者の講義をまとめた本で、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の文章を引用して解説を加えながら、この書が全体を通じてなにを意図しているのかということを明らかにしています。 日本語で読める『アンチ・オイディプス』の解説書には、すでに訳者である市倉宏祐の『現代フランス思想への誘い―アンチ・オイディプスのかなたへ』(1986年、岩波書店)があります。ただ、ごく早い時期の本でドゥルーズの思想がまだ充分に消化されていないかったためもあるのかもしれませんが、個人的にはやや難解に感じていたので、本書のわかりやすい解説はたいへん有益でした。 もっとも、本書に登場する質問者が言及しているように、なぜドゥルーズ=ガタリが精神分析に対してこれほどこだわっているのかということが、まだ充分に説明されていないような気もします。むろん著者も、「精神分析」と「分裂分析」のちがいを明確に説明しており、さらに「精神分析」に対するメタ・レヴェルでの批判であると語られているのですが、それがどういう意味なのかもうすこしくわしく説明してほしかったように思います。 この問題にかんしては、ドゥルーズの初期のヒューム研究を手がかりにすることができるのかもしれません。カントの批判哲学をしりぞけてヒュームの思想に「超越論的経験論」としての意味を見いだそうとしていたドゥルーズの試みにかんしては、江川隆男の『存在と差異―ドゥルーズの超越論的経験論』(2003年、知泉書館)が先鞭をつけ、千葉雅也の『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2017年、河出文庫)がかみくだいてその意義を解説しており、経験の表層に身を置きつつ世界の多様性をえがきとろうとするドゥルーズの試みがていねいに論じられています。こうしたスタンスは、精神分析によって「構造」にさかのぼることなく「欲望」の多様性を肯定する『アンチ・オイディプス』の戦略に共通しているような気がします。

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2020/07/11

ドゥルース+ガタリの「アンチ・オイディプス」の上巻は読んだが、全然歯が立たなかった。本屋で本書を見付けた時、頭の中で「やめとけ、やめとけ、無理すんな、若くもないんだし」という声もタップリ聞いたが、兎も角読み始める。 時間掛かったなあ。 この読みづらい元本をかなり嚙み砕いているの...

ドゥルース+ガタリの「アンチ・オイディプス」の上巻は読んだが、全然歯が立たなかった。本屋で本書を見付けた時、頭の中で「やめとけ、やめとけ、無理すんな、若くもないんだし」という声もタップリ聞いたが、兎も角読み始める。 時間掛かったなあ。 この読みづらい元本をかなり嚙み砕いているので、有難いとは思う。元が引用を明示しないで書き飛ばしているのを、一つ一つ説明しているのが博覧強記振り。その仲正先生ですら終盤、恐らくこういうことを云っているという表現が増えてくる。元書は判らせようと微塵も思ってないんだな。 フロイトの言うエスが「機械」に置き換えられる。“自動的”にあるいは“自立的に”運動しつづけていくもの一般。これが人間の身体、精神、社会を同次元で適用されるので、欲望機械、独身機械、資本主義機械という言葉がバンバン出てくる。欲望機械は一つに纏まることなく、てんでバラバラに出鱈目に何処かに引っ付こうとするものという。 そして「器官なき身体」。究極の不動の状態。終盤で改めて、欲望機械によって各器官に機能分化“以前”の身体、ヴァーチャルな身体と説明される。社会体の最初の形態「大地」は大地機械とも記述され、欲望の流れをコード化する。 こうした内容がピンと来ない。 聴講者からも何故、オイディプスを批判の対象とするのか判らないという質問がある。現在の精神分析ではさほど重要とされていないし、フロイトがオイディプスを云い出したのは、かなり晩年だし。精神分析の用語を別の意味に使っているのも不信を持たれている一因のよう。 大地機械、専制君主機械、資本主義機械とそれぞれの身体。脱領土化と再領土化、脱コードと再コードの論議は興味深い。資本主義機械がすべてを飲み込んでいく先は「死」なんだろうけれど、具体的なものが見えてこない。 パラノイアと分裂症については、基本的な知識を欠いていて、正直よく判らない。 素直に首肯する部分が少なくて、ポストモダンなんてこんなものかと思うのだが、後書きで仲正先生が、安易な反ポモ(ポストモダン)を唱える前に、という一文を記されている。バカはバカなりに我慢して考えることが必要ということだな。

Posted byブクログ