「自然」という幻想 の商品レビュー
手付かずの自然、というのがいいわけではない、しかもめったにそんなのはない。という立脚点から、人為的な撹乱を容認する、というより肯定的に行うべし、という本。 ホントかな? という思いが拭えない。
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起点をどこにするのか。遡るのか、前に進むのか。 自然とは何か。自然と人間、そうやって区別したところから始まるのは多分間違っている。手つかずの自然。人間の影響が及んでいない定まった、あるべき自然。一体そんなものはあるのか。 ただの郷愁でしかない。希望に彩られた幻想でしかない。...
起点をどこにするのか。遡るのか、前に進むのか。 自然とは何か。自然と人間、そうやって区別したところから始まるのは多分間違っている。手つかずの自然。人間の影響が及んでいない定まった、あるべき自然。一体そんなものはあるのか。 ただの郷愁でしかない。希望に彩られた幻想でしかない。例え人間が存在しなかったとしてもそんなものはどこにも現れることはない。 恐らく人間やそれによってもたらされる人工というものの対比的に自然という定義が生まれるから、その枠に囚われて、それ以上に進めない。その枠の中にしか居場所を見つけることができない。これは言葉と定義と人間が作る世界のあらゆる場面にて表れてくるお決まりのルーチンでしかない。 人間を含んだ、人間が改変し続ける、影響を及ぼし続ける「自然」でしかその定義は存在し得ない。だから、そこから始めるしかない、始めればよいと言っている。 気候変動はもう起こっている。自分たちがもたらしたものだ。それが自然にも当たり前に圧力を加えていく。変化を促していく。変化できなければ居場所を失い消えていくしかない。 自然を守りたいとするならば、遡るのではなく、ありもしないいつかの姿をキープすること、そんなできもしないことを追い求めるのではなく、自然が変化していくのを後押しすることしかできることはない。変わっていく自然がそのままの「自然」だということを理解しなくてはならない。途轍もない影響を地球に及ぼしながら人間は生きている。自然の一部としてある人間が圧倒的な改変を自然に自分自身に課しているのだ。そのことをちゃんと自覚しなければならない。そこにある自然の一員としての自分たちという責任を覚えたときに、周りにある自然に果たすべき役割を果たしたいのならば、何をするべきなのか、一体何ができるのか、それが真っ先にあるべきだと思う。人間都合の自然論や、勝手気ままな郷愁や、感情的な語卓が並べられる余裕はきっとこの地球上にはもうない。 人間によってスピードが早められている地球の変化に着いていけなくなってしまっている自然を人間の手で動かしたり、その変化の道筋を整えてあげる。変化を認めないのではなく、変化していく自然のダイナミズムに、将来の可能性を信じて手を貸すことだ。責任を果たしながら、人間に出来る範囲で変わっていく世界の一助となることだ。 人間の上から目線の自然というほど、この世界はちっぽけで単純なものじゃない。 例え、この地球がどんな姿に変わっていくのだとしても、それが「自然」だというだけ。 きっと人間の及ぶ話ではない。 だからこそ、自分たちのためにいま出来ることをするだけだ。
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エマ・マリス氏は、米国・シアトル出身のサイエンスライター。ネイチャー誌、ナショナルジオグラフィック誌、ニューヨークタイムス紙などに、自然、人々、食べ物、言語、書籍、映画などをテーマに執筆している。 本書は、2011年に発表された『Rambunctious Garden : Sav...
エマ・マリス氏は、米国・シアトル出身のサイエンスライター。ネイチャー誌、ナショナルジオグラフィック誌、ニューヨークタイムス紙などに、自然、人々、食べ物、言語、書籍、映画などをテーマに執筆している。 本書は、2011年に発表された『Rambunctious Garden : Saving Nature in a Post-Wild World(ごちゃまぜの庭:野生後の世界で自然を保護する)』の全訳で、2018年に出版された。 私は、自然保護について何ら専門的な知識を持ち合わせてはいないが、訳者の岸由二氏(慶応大学名誉教授)によると、ここ10年ほど、世界の自然保護の分野は、大論争と新しい希望の時代に入ったという。それは、人の暮らしから隔絶された「手つかず」の自然、人の攪乱を受けなかったはずの過去の自然、「外来種」を徹底的に排除した自然生態系、そんな自然にこそ価値ありとし、その回復を自明の指針としてきた伝統的な理解に、改定をせまる多様な議論・実勢が登場しているということであり、著者は本書で、そうしたパラダイムの変化(の兆候)を具体的な事例を挙げて紹介している。 読了して、このテーマの議論の前提として再認識したことが2点ある。 ひとつは、自然保護家が声高に叫ぶ「手つかずの野生(Wilderness)」というものは、地球上に(氷結地帯などは除き)ほとんど存在しないということである。例えば、米国の自然保護家の多くは、ヨーロッパ人が移住を始める以前の北米大陸を「手つかずの自然」と位置付けるが、現実には、ベーリング海峡を渡って先史時代以来住んでいた先住民が、既にそれ以前に自然を攪乱させており、「手つかずの自然」ではなかったのである。 もうひとつは、人為的なものがなくても、自然は常に変化するということである。従来は、自然(生態系)は不変である、あるいは、わずかな揺らぎはあるものの、基本的には安定した平衡状態にあるとする「自然の均衡」説が主流であったが、実際には、自然は非平衡状態にあり、常に変化するものであることが明らかになってきたのだ。 この2つを考えれば、仮に過去の自然状態を回復することが可能だとしても、そもそも、その基準となる時点を合理的に定めることができないことは明らかである。 そして著者は、「手つかずの自然」こそ理想という考え方を捨てて、「ごちゃまぜの庭(多自然ガーデン)」というコンセプトを提唱するのである。それは、①人間以外の生物の権利を守ろう、②カリスマ的な大型生物を守ろう、③絶滅率を下げよう、④遺伝的な多様性を守ろう、➄生物多様性を定義し、守ろう、⑥生態系サービスを最大化しよう、➆精神的、審美的な自然体験を守ろう、という7つの具体的な目標を掲げ、実現するためのコストを考慮した上で、それぞれの地域に関わる人びとが、自らの地域に適した目標を合意・設定して、自然を保護し、自然の価値を高めていこうというものである。 自然とは何か、それを保護するとはどういうことかについて、いろいろ考えさせてくれる一冊である。 (2021年1月了)
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自然保護について新しい視点を教えてくれた。人が入る前の自然を自然保護の基準とするのが普通かと思っていたが、人の手が加わった後の自然も自然として見ていこうという考えや、人工的な場所に再度生態系を導入していく再野生化という考えは大変面白いと思った。
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ラジオ「アフター6ジャンクション」で紹介されていて気になったので。 所謂自然保護の基点をどこに置くか?その基点は本当に「手つかず」なのか?そのあたりの調査・研究があり、いまどのような取組が行われているか?人類は今後どのように自然と関わっていくべきか?という感じのお話。 著者がアメリカの人なので、北アメリカ大陸の話題が中心で、あとはヨーロッパの話題が大半。日本についてはアニミズムの紹介程度(だったと思う)。 ビルの屋上緑地、CO2削減のためという意味合いで広まってるのかなと思ってたんだけど、猫とかに捕食されやすい飛べない鳥の生息地としても見ることができるのか。なるほど。 自然保護区域として他の用途を考えずに管理するよりも農地として管理した方がコスト的にも良い、というのはわかる気がする。有機農業とか、動物に負担の少ない畜産にはどうしても広い土地が必要だし、そういう意味でも相互に有益に見える。複数期作すると土地が痩せやすいという問題に対する解決策でもある、のかな。 あとがきで著者も書いてたけど、子どもが老齢になる頃、果たしてどうなってるだろう。 以下、キーワードかなと思ったことをざさっと ・ウィルダネス信仰 ・ビアロウィエージャ ・管理移転 ・デザイナー生態系 ・エコ・産業ヴィジョン ・伝統的な方式で管理されている農地=自然保護の場@ヨーロッパ ・狭い庭やバルコニーの小さな自然
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自然に対する新しい考え方! 昔の自然が良いとは限らないんだね、、 変化しうる自然、身近な自然を大切にしよう!!
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とにかく読みづらい。 ジャーナリストが書いたからなのか、最初に結論があって、それに関係するネタをたくさん集めて、それっぽく並べて、修飾語で飾り立てて作り上げたという印象。 翻訳もこなれてない。 テーマは興味深いだけに、残念。
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生態学者や環境学者が自然保護や種の保存などを唱えていることを引き合いに出しながら都市の空き地を放置することで新たな生態系が生まれそのことが思わぬ結果となり過去の自然ではない新たな自然を生む過程を各項目ごとに比較的詳細に書いている。(...と感じた 読解力が低い私) 読み進みながら特に後半の章ではふと日本の「里山」のことなどが頭に浮かんでくる。 自然環境や生態系の本を読みながらそれと同時にランドスケープデザインの勉強もしているが、乱れた生態系を元に戻すことに執着すると現実の社会が機能しなくなるのでは?とこの頃感じ始めていた。 この本を読んで里山の可能性や都市の中にある公園やビルの屋根...etc... 可能性はいくらでもあるとも思えた。(...が現実的にはそう簡単ではないかも) 過去ではなく未来に...そしてやはり人間が主であるべきなんだな!と改めて思った次第。
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「自生種が善、外来種は悪」と耳にタコができるほど教えられてきた。 稲は外来種なのに何故問題にはならないのだろうか。海外産の樹木が日本各地で平気で植栽され、時には寺社仏閣に巨木となって存在しているが、これは上記の考えから言えばどういうことになるのだろうか。 こんな疑問が一度に吹...
「自生種が善、外来種は悪」と耳にタコができるほど教えられてきた。 稲は外来種なのに何故問題にはならないのだろうか。海外産の樹木が日本各地で平気で植栽され、時には寺社仏閣に巨木となって存在しているが、これは上記の考えから言えばどういうことになるのだろうか。 こんな疑問が一度に吹き飛んだ、というかどうでもよくなった一冊。 潜在自然植生こそが植栽行為の最適解であり、他の手段を「偽物の自然」と断罪する活動家もいるが、筆者は決して手付かずではないとする「極相林」でさえ肯定し、多種多様な方法で自然を守り、時には作っていくことを提案する。 まずは自分がいいと思うことに素直に、好きな植物を庭に植えてみようと思った。
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