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近代日本の中国観 の商品レビュー

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2023/12/30

内藤湖南を軸に戦前戦後の知識人の中国観を辿る本書のモチーフは、彼らの中国へのアプローチが、意識的にせよ無意識的にせよ、いかに西欧的な枠組みにとらわれていたかという問題意識である。それは西欧の物差しではかった自己の理想像を中国に投影してきた結果でもある。西欧が我々の到達すべき理想で...

内藤湖南を軸に戦前戦後の知識人の中国観を辿る本書のモチーフは、彼らの中国へのアプローチが、意識的にせよ無意識的にせよ、いかに西欧的な枠組みにとらわれていたかという問題意識である。それは西欧の物差しではかった自己の理想像を中国に投影してきた結果でもある。西欧が我々の到達すべき理想であるならば、中国は克服ないし指導すべき遅れた社会と見做され、逆に西欧が克服すべき堕落であれば、中国は連帯すべき同胞になる。前者においては資本主義の確立、後者においては社会主義の実現が目指されていた。いずれも西欧社会をモデルにした歴史発展の段階論に中国を当てはめて理解しようとする点で変わりない。それでは中国の実像は見えてこないというのが著者の主張である。 「反骨のリベラリスト」石橋湛山が大陸の権益を捨てよと説いたのも、中国のナショナリズムの内実を直視せず、西欧や日本のそれに重ね合わせて同情していたに過ぎない。宮崎市定にせよ谷川道雄にせよ、湖南の学統を受け継ぐ京都学派も論敵の東大歴研系学者と同じマルクスの発展史観を基準に中国を見ていた。中国という対象を虚心に見つめ、借り物の概念装置によらず、その多様性をあるがままに掴もうとする態度を誰より持っていたのは湖南である。それは湖南が原勝郎や内田銀蔵といった西欧の史学方法論を身につけた同僚との学問的交流の中で自身の時代区分論を練り上げながらも、そのバックグラウンドは漢籍であったこととおそらく無関係でない。惜しむらくは、湖南とかなり近しい中国認識を持ちながら庶民階級の位置づけでは湖南に同意しなかった矢野仁一との間に論争がなかったことだ。哲学における京都学派で西田幾多郎と田辺元が交わしたような熾烈な論争がもしあれば、湖南の中国認識はより深められたかも知れない。ともあれ歴史家が心すべきは、概念や理論をよくのみこまないまま現実の対象にあてはめたり、事象をじっくりと見ないまま、概念を張り付けて理論化してしまうことへの自戒であるという指摘は重要だ。 アジアの老大国であり隣人である中国にどう向き合うか、これはアジアで例外的に西欧的な近代国家を形成し得た日本において知識人の思想的立場の大きな試金石であった。福沢の脱亜論に始まり、大陸進出の是非、そして時代区分論争に至るまで、中国は彼らの思い描いた日本のあるべき姿のネガでありポジであった。その意味で本書はまさしく「もうひとつの近代日本思想史」と言ってよい。これは本書の帯に書かれた宣伝文句だが、出版社が考えたにせよ、著者の意図を案外ストレートに伝えているように思う。小著ではあるが、学説史として、思想史として、そして社会科学方法論としても読みごたえのある力作である。

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2019/07/21

いま現在の中国理解を深めるためにも、困難な日中関係に苦悩し、中国をみつめつづけた(近代日本の)先人たちがどう中国を認識してきたかを探ってみることが重要との問題意識から、石橋湛山、矢野仁一、内藤湖南、橘樸、谷川道雄などを取り上げ、その著作を引用紹介しつつ、彼らの中国観を批判的に検討...

いま現在の中国理解を深めるためにも、困難な日中関係に苦悩し、中国をみつめつづけた(近代日本の)先人たちがどう中国を認識してきたかを探ってみることが重要との問題意識から、石橋湛山、矢野仁一、内藤湖南、橘樸、谷川道雄などを取り上げ、その著作を引用紹介しつつ、彼らの中国観を批判的に検討している。 石橋湛山や橘樸、戦後の時代区分論争に関わった東洋史学者など多くの近代日本人は、「中国の政治・社会を西洋・日本と同一視したうえで、西洋を基準として対比する」形で中国を認識しており、「「中国社会の構造を論ずることができ」ない「近代主義」・西洋思想で中国に向きあって」いたと批判し、中国に対する内在的な理解を試みていた矢野仁一内藤湖南を一定再評価しつつ、「中国とその社会、そのしくみと動きを、借り物の思想・概念で断ずるのではなく、自分の目でじっくり、しっかりみつめてゆくこと」が必要と結論している。 現在の日本人として中国をどう理解・認識すべきかということのヒントを得られるとともに、東洋史学史の優れた入門ともなっている良書であると感じた。

Posted byブクログ

2019/02/05

民族としてとらえるのか、国家としてとらえるのか、地域としてとらえるのかでも変わってくるのだろうし、マルクス史観などその時代の主流の考え方にも左右されるだろう。 石橋湛山以来半世紀以上が経ち、習近平政権になっても、日本人の中国理解度は全く進んでいないように思える。 この年代の東...

民族としてとらえるのか、国家としてとらえるのか、地域としてとらえるのかでも変わってくるのだろうし、マルクス史観などその時代の主流の考え方にも左右されるだろう。 石橋湛山以来半世紀以上が経ち、習近平政権になっても、日本人の中国理解度は全く進んでいないように思える。 この年代の東アジア研究者が出てきたのは、それだけで成果ではないか。

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2019/01/01

近代日本の中国観と区切っているのは戦後のそれが階級論一色に染まったつまらないものであるという著者の評価を端的に表したタイトルなのだろう。谷川道雄は戦後世代であるが、面識のある京都学派の最後の系譜として登場させた様である。歴史学者がイデオロギーに依拠した論述を行うことの是非は最早中...

近代日本の中国観と区切っているのは戦後のそれが階級論一色に染まったつまらないものであるという著者の評価を端的に表したタイトルなのだろう。谷川道雄は戦後世代であるが、面識のある京都学派の最後の系譜として登場させた様である。歴史学者がイデオロギーに依拠した論述を行うことの是非は最早中国史界隈では決着が着いた感があるのだが、戦後のつまらない時期は支敗戦や新中国で突然生じたものではなく、戦前戦中のマルクス主義史観が東洋史に及ぼした影響を軽視すべきものではなかろう。むしろ戦争末期に徹底弾圧され消滅した反動が戦後に「歴史認識の正しさ」という印籠を得て復活したとも言える。現在日本ではほぼ消滅したマルクス主義史観も中国の影響が巨大になれば、復活する可能性が無いとは言えないだろうし、中国が日本の「停滞論」を歴史的解釈することにより、中国共産党の「歴史的正しさ」を是認する新たな「歴史認識」も生じている様に思える。

Posted byブクログ