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1968 文学(2) の商品レビュー

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2019/05/03

『1968[1]文化』からの『1968[2]文学』です。[1]が、タイムカプセルのように当時の文化事象がギュウギュウに詰まった缶詰のようなものだったのに対して、[2]は同じタイムカプセルでも空気の缶詰のようでした。それは、編者の意図が、あえて文学史的に認められた作品(曰く、この時...

『1968[1]文化』からの『1968[2]文学』です。[1]が、タイムカプセルのように当時の文化事象がギュウギュウに詰まった缶詰のようなものだったのに対して、[2]は同じタイムカプセルでも空気の缶詰のようでした。それは、編者の意図が、あえて文学史的に認められた作品(曰く、この時期は日本文学にとって、きわめて豊かな「穫れ年」の連続…)やベストセラーやは捨てて、「時代をすぐれて体現しているにもかかわらず、不当ななでに蔑ろにされたり、また一度も照明が当てられることなく、忘却に付されてきた文学作品」のアンソロジーの実現を目指しているから。それぞれの作品の言葉が当時を知る、つまり1968年のムーブメントの当事者だったり、その直後世代だったり(まさに、四方田犬彦「ハイスクール1968」なジェネレーション!)には、血中を流れる実体なのでしょうが、またその下の世代にとっては、匂いとか雰囲気した感得出来なかった訳です。特にこの時代、詩の持つ力って凄かったんだな、とたじろぎました。『現代詩手帖』のみならず『高3コース』の投稿欄なのですから!編者もこのアンソロジーを編纂しての気づきとして次のように述べます。「社会が不可逆的な変動を体験しつつあるとき、最初にそれに反応するのは詩であり、短歌であるという事実である。映画の分野でいうならば、ドキュメンタリーだといえるかもしれない。次が戯曲。そして批評。小説と劇映画はもっとも遅れて到達する。日本文学において〈1968年〉は、小説として同時進行的に表徴される機会がきわめて少なかった。それが主題として取り上げられ、物語として語られるようになるには、1970年後半を待たなければならなかった。」それが、ダブル村上か…。短歌で収録されている道浦母都子の「今だれしも俯くひとりひとりなれわれらがわれに変わりゆく秋」に強い印象を受けました。1968って世界中の「われ」が「われわれ」を夢見、そしてまた「われ」に戻っていく現象だったのかもしれません。バラバラになった「われ」が突入していくのが大量消費社会の多幸症時代なのでありました。ムムム、こうなりゃ[3]の漫画も行っておくか!

Posted byブクログ