「学びの責任」は誰にあるのか の商品レビュー
効果的な学習指導とは、教師による一方的な一斉指導か児童生徒主体の個別学習かという選択ではなく、教師による焦点を絞った指導、教師がガイドする指導、児童生徒による協働学習、個別学習を段階的に導入していくことである。
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自立した学び手を育てるとは? 一斉授業だけではなく、段階を踏んで責任を移行する授業を行おうという本。すでに取り組んでいることもあるし、一斉授業のすべてを否定するものでもないし、メタ認知について大学で取り組んだから知っている理論もあって、飲み込みやすかった。 まず何から取り組みたいかというと、目標を明確にして、それを授業で生徒に示すこと。ゴールを示すのが曖昧になりがちだから、明確に目標を示してモチベーションにつなげたい。それから形成的評価と総括的評価に分けて、評価方法と評価基準を作りたい。これもきちんと生徒に示したい。また、適切なフィードバックについても意識して行いたい。次に何をするかにつながるフィードバックをしていきたい。ガイドにしても、やはり答えを教えるのではなくて、成長のはしごかけになるように意識したい。 多分このアメリカの事例をそのまま持ってくることは無理だけど、上に書き出したようなことは意識して授業作りにつなげていきたい。
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申し訳ありません。あまり新しさを感じませんでした。ヴィゴツキーの発達の最近接領域、ブルーナーの足場かけがわかっていれば読む必要はないかもしれません。また、なぜ「責任の移行モデル」なのかもう少し議論が欲しかったです。個別最適化が必要とされる現在において、なぜ「責任の移行モデル」を教...
申し訳ありません。あまり新しさを感じませんでした。ヴィゴツキーの発達の最近接領域、ブルーナーの足場かけがわかっていれば読む必要はないかもしれません。また、なぜ「責任の移行モデル」なのかもう少し議論が欲しかったです。個別最適化が必要とされる現在において、なぜ「責任の移行モデル」を教室のみんなに強制せねばならないのか。このモデルはやや息苦しいように感じてしまいました。
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今でいう、習得、活用、探究の道筋にかさなる部分が多くてとても参考になりました。海外の実践、それもどちらかといえば低学年を相手にした話で、全て当てはめるわけにはいかないにしても、一斉授業だけ!アクティブラーニングだけ!なバランスになるのではなく、教員が教える部分と、生徒が取り組む部...
今でいう、習得、活用、探究の道筋にかさなる部分が多くてとても参考になりました。海外の実践、それもどちらかといえば低学年を相手にした話で、全て当てはめるわけにはいかないにしても、一斉授業だけ!アクティブラーニングだけ!なバランスになるのではなく、教員が教える部分と、生徒が取り組む部分を、非常に明快に書いている印象です。本の作り的に冒頭で大まかな授業の流れはわかりますが、それぞれの活動の狙いや理由についても詳しく書いてあります。日本型の教科書が決まった授業でどの程度応用ができるのかは、検討してみないとわかりませんが、理論的な話も多いので、講義とアクティブラーニングの往復をどう組み立てていくかのヒントが詰まっています。先生が教え、生徒たちがグループで学び、最後に個々の生徒にかえる。この流れをいかに作るか?学べることは沢山あります。
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学校の先生が自らの授業とカリキュラムを考える際に参考にすべき文献。何かをすべきというときは、研究による支持があり、明示されている。とても信用できる。 概要としては、教師が教える教室から、教師がガイドして子どもが学ぶ、子ども同士で学び合う、子どもが一人で学ぶ教室へと、徐々に変えてい...
学校の先生が自らの授業とカリキュラムを考える際に参考にすべき文献。何かをすべきというときは、研究による支持があり、明示されている。とても信用できる。 概要としては、教師が教える教室から、教師がガイドして子どもが学ぶ、子ども同士で学び合う、子どもが一人で学ぶ教室へと、徐々に変えていこうという、4段階のモデルを提案する。自律した学び手を育てることを目標に据えている。 良書。
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本書では「責任の移行モデル」という教育方法について例を交えながら説明している。 自転車に乗れない子どもが徐々に補助輪や親の手から離れていくように、生徒の学習にも「先生が教える」「先生と生徒が学ぶ」「生徒同士で学ぶ」「生徒が自分で学ぶ」の4つの段階がある。 4つの段階のどの説明ページにも共通して載っているワードがある。 それは「診断的評価」だ。 学期末に行うテストのような「総括的評価」が、生徒への評価の大半を占めている現代。 だが本当に大切なことは、途中で生徒たちがどの段階にいるかを教師が「診断」し、把握することではないだろうか。 現在の教育は画一的だ。 生徒によって学習の段階が違うのに、いつまで「公平な扱い」のもとで一斉授業を続けるのだろうか。 生徒それぞれが出来ていないところに焦点を当て、それが出来るように段階に合わせた方法で促す。 教師はそのように生徒一人一人にとっての「サポーター」であるべきだ。 教育をするのは教師だけではない。 親だって「教育」をしなければいけない。 会社に勤めていれば、後輩を「教育」しなければいけない。 教育は避けて通れない道なのだ。 だからこそ教育方法について学ぶことは、今の日本にとって意味があることなのだと私は思う。 今後は4つの段階において「どうやって」教育活動をするかがポイントになってくる。 なぜなら、指導書通りの教育はAIでもロボットでも出来るからだ。 そんな時代はすぐにやってくる。 生徒が今どの学習フェーズなのかを観察、診断し、自分ならその段階で「どうやって」教えるかを考える必要がある。
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<目次> 第1章 学校で学ぶこと、あるいは学ばないこと 第2章 焦点を絞った指導~目的、見本を示すこと、考え聞かせ、気づくこと 第3章 教師がガイドする指導~質問、ヒント、指示 第4章 協働学習~クラスメイトと協力し合って思考をより強固なものにする 第5章 個別学習~教えられたことを応用する 第6章 責任移行モデルを実践する <内容> 新評論社、吉田新一郎氏の教育指導本。これで読むのは三冊目だろうか?アメリカの教育実践の理論書シリーズで、今回は「学び」を子供たちの手にするための教育をする方策を体系だって紹介している。第2章から第5章で4段階のステップを経る。 日本の場合は、「アクティブ・ラーニング」(文科省は最近、”主体的・対話的な深い学び”と言い換えているが、長いのでこの手垢のついた言葉で言っておく)という割に、小学校からずっと学びの責任」(教育の主導権?)は教師にあるままなので、このテキストのように生徒は考えてくれないだろうから、これを実行するのは前段階がかなりしんどいと思うが(アメリカも本の紹介では最初の20日間はこの教育の準備段階で様々な仕掛けを用意することが書かれている)、上手くいけば、授業中に生徒が寝ず、1年間終わると相当な知識と思考力が付き、主体的に応用的に物事を考えてくれるのではないか?と想像できる本である。実践にはやや二の足を踏むが、やってみたいことである。
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この本の価値は2つあると思っている。 ひとつは、「学びの責任は子どもたちにある」という当たり前の事実を、当たり前に指摘していることだと思う。このことは、教育がサービス産業化してしまったために現在の教育現場ではあまり「当たり前」のことではなくなってしまっている。しかし、そのことが、...
この本の価値は2つあると思っている。 ひとつは、「学びの責任は子どもたちにある」という当たり前の事実を、当たり前に指摘していることだと思う。このことは、教育がサービス産業化してしまったために現在の教育現場ではあまり「当たり前」のことではなくなってしまっている。しかし、そのことが、教育の質を低下させていることはあまり指摘されない。いつまでも学びの責任が教師にあるようでは、子どもは学習者として自立することはできない。そのことを、教師は生徒に伝える必要があるのだが、日本の教育現場でそれをすることは、教師の「責任放棄」であると考えられてしまう。 教師の役割は、子どもが自らの力で学ぶことができるように学びの責任を徐々に生徒に移行していくことであり、その過程では当然「教える」ということも価値を持つことになる。学びの責任は子どもたちにあると考える「子ども中心主義」の教育者のなかで、このことを指摘する人もまた少ない。しかし、この「責任の移行」の重要性を理解せず、そのプロセスに関与することを怠るなら、それは紛れもなく教師の「責任放棄」である。 この本のもう一つの価値は、学びの責任が生徒に移行していく過程を、「アカデミック・イングリッシュ」の習得の過程として捉えているということだ。作家の水村美苗が『日本語が亡びるとき』のなかで指摘しているように、普遍語の習得が、その言語共同体における文化的な絆を強め、その共同体の内部に生きる人々の生き方の質を高めるものであるということが、この本のなかでは明確に意識されているように思われる。つまり、この本の著者は、教育という営みを、普遍語を用いたパロールの実践として捉えているのだ。 要約すれば、この本は、「教える」ことと「学ぶ」ことのバランスについて書かれた本であり、教師の適切な支援とはどのようなものであるのかということについての考察である。 全く立場は異なるが、このバランスについて、僕はルドルフ・シュタイナーの教育論からも多くの洞察を得ることができると思う。 シュタイナーが指摘したように、教師とは、この世界を代表して子どもたちの前に立つ人格のことであり、その人格に触れることを通して、子どもはこの世界との向き合い方を学ぶことになる。 そうしたシュタイナーの教育論は、子どもの本来的な欲求を抑圧する、権威主義的な教師論とも異なるし、教師の一切の介入を否定して、子どもの好きなように振る舞わせる浅薄な「子ども中心主義」とも異なる。 いずれにしても、教師に必要なことは、一人ひとりの子どもが自分自身になることを助けることであり、そのために子どもたち一人ひとりのなかに働いている本来性を、正しく見通す目を持つことである。
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