復活の日 新版 の商品レビュー
コロナ禍に再注目されていたので、その時に読めば良かった。 5類緩和以降の今となっては、コロナ禍にあった将来が見えない不安感がなくなってしまい、小説の迫力も変わってしまう。コロナ禍が懐かしい、というと不謹慎なのだろうか。正直、インドア派で孤独を好む性分のため行動制限のある、終末感...
コロナ禍に再注目されていたので、その時に読めば良かった。 5類緩和以降の今となっては、コロナ禍にあった将来が見えない不安感がなくなってしまい、小説の迫力も変わってしまう。コロナ禍が懐かしい、というと不謹慎なのだろうか。正直、インドア派で孤独を好む性分のため行動制限のある、終末感には独特の味わいがあった。 コロナ禍も振り返ると、過剰反応だったのでは、と思う事もある。それでも、当時は何もかもが分からなかったのだから仕方なかったのだろう。それ故に、手探りしながら、何かの予感に怯え、期待し、それを強く共感するような妙な連帯感や分断があったのだと思う。 本書は、ウイルス(細菌?)が蔓延し、人類滅亡の危機に瀕するという話である。残された人々の試練、生き方を問うような内容だ。コロナ禍を経験したせいで、それと比較してしまい、もっと違う動きになるのではとか余計な事を考えてしまう。だからこそ、もっと臨場感のあるタイミングで読めば良かったのかもしれない。読書には、タイミングや環境も重要だという事を改めて感じた次第である。
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【感想】 人類は、滅亡を前にするとどのような感情が生まれるのだろうか。しかもそれが隕石の落下といった劇的な幕切れではなく、「ただのかぜ」によってぽっくりと絶滅していくとき、人々の間に勇敢な精神は宿るのだろうか?それとも「なぜこんなことに…」という薄っぺらな後悔の中で哀れに死んで行...
【感想】 人類は、滅亡を前にするとどのような感情が生まれるのだろうか。しかもそれが隕石の落下といった劇的な幕切れではなく、「ただのかぜ」によってぽっくりと絶滅していくとき、人々の間に勇敢な精神は宿るのだろうか?それとも「なぜこんなことに…」という薄っぺらな後悔の中で哀れに死んで行くのだろうか? 本書はそうした「滅亡を前にした人類たち」の死にざまを描いたSF小説だ。書かれたのは1964年、キューバ危機の2年後であり、ちょうど第一回目の東京オリンピックが開かれた年である。「未知の病原菌により人類が窮地に追い込まれる」という内容なこともあり、コロナ禍の今再注目されている。といっても、現在の状況と類似している部分はあまり無く、描かれるストーリーはあくまでSFの範疇に収まるものだが。 私が本書で見事だと思ったのは、人間たちを決してヒロイックに描かなかったことだ。 人類は、すばらしくもなければ絶望的でもない。むしろこの宇宙においてはウイルスと同じような「ただ増殖する存在」である。そのちっぽけな存在が知性を宿し、文明を生み出し、地球を滅ぼすほどの科学力を手にした。それが「人類はやはり特別なのだ」という驕りに繋がっていく。恐竜といい、人間以外の類人猿といい、数多く栄えた種族もいつかは滅亡する日がやってくる。にもかかわらず、「人類がこんなことで滅ぶはずがない」という慢心がくすぶり続け、未知の病原菌を前に手を取り合わなかった。人々が死に、文明が停止し、もう取り返しがつかない地点に到達してようやく、自分たちが行ってきたのが実にくだらない諍いやあさましい反感だったことを悟るのだ。 一章の最終盤、文明史の教授がラジオに向かって最後の講義をする場面は、こうした人間の愚かさを見事に言い表している。ぜひとも必見だ。 ――この災厄はある意味人災であった。自己の存在を過信することなく、つまり人間とは地球上において特別な存在であると驕ることなく、むしろウイルスと同様に一介の生命集団だとみなし、自己の存在のおかれた立場に目ざめ、常に災厄の規模を正確に評価するだけの知性を、全人類共通のものとして保持し、つねに全人類の共同戦線をはれるような体制を準備していたとしたら、災厄にする闘いもまた、ちがった形をとったのではないでしょうか? ――「戦争が科学の発達を――特に応用科学を促進した」と、誰かはいいました。これこそ、残念ながら否定できない、戦争の文明に対する貢献だ、と…。戦争は、レーダーをうみ、ジェット機をうみ、ロケットをうみ、電子脳をうみ原子力を解放した、と……。だが――こんなバカげた理論があるでしょうか?人類は、戦争あるいは軍備の名目においてしか、これらのすばらしい科学の発達をうながすような、大規模な開発投資ができなかったのでしょうか?人類は、死神のスポンサーにたよる以外に、これらのすばらしいものを、もっと迅速に、能率よくうみ出すことができなかったのでしょうか?(中略)われわれ学者はそれを、文明の資本主義――功利主義段階の不可避的事態、として、宿命として、うけいれてしまうだけで、未来に期待をかけるだけでよかったでしょうか? ――われわれ人類は、もっと早くその全人類的意識を獲得することによって、冥蒙たることをやめ…、相互殺戮の、侮辱や憎悪の、エネルギーを…真の人間のための闘い――貧困と飢餓と冥蒙と疫病に対する闘いに、そして認識のための闘いに…ふりむけていたかも知れない。(中略)今度の大災厄においても究極的チャンスは…もっと早く、もっと強力に全世界のものとされるべきだった「理性と分別」にあったかも知れないのであります。
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376ページ9行目が印象に残った。 人類も地球の歴史のほんの一部なんだなあとこの本を読んで思いました。
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コロナ禍の今だからこそ、予言のような洞察力にふるえる。とにかくはちゃめちゃに賢い人が書いたSFで、なおかつその人が人間を信じている、というのが伝わるだけでもぐっとくるものがあった。 学者や軍人の「結果」に対する想像力の無さに警鐘を鳴らし、「全世界を疫病から救い出したいと努力して...
コロナ禍の今だからこそ、予言のような洞察力にふるえる。とにかくはちゃめちゃに賢い人が書いたSFで、なおかつその人が人間を信じている、というのが伝わるだけでもぐっとくるものがあった。 学者や軍人の「結果」に対する想像力の無さに警鐘を鳴らし、「全世界を疫病から救い出したいと努力しているこの同じ瞬間に、疫病流行、仮想敵国の疫病体系の破壊」を考える存在に言及し、死滅した世界にまだ生きながらえている憎悪のメカニズムというおそろしいシステムを考案しながらも、自分の知識を死後の世界に役立てることを願った人や南極世界を描く知性に、胸があつくなる。 全員の生きようとする熱意と努力とこの二つにうらづけられた創意と工夫、全員の理性を信頼すること、全員の相互監視と、相互の思いやり、説得、集団の民主主義的ルール、という南極世界は、小松左京が願う世界のあり方なのだろう。 滅びゆく世界で放送をやめないラジオの描写、リスナーの自分にはかなり刺さった。 「結局みんな溺れ死んでしまうにしても、みじめな孤独の闇中で死ぬより、よびかけあい、はげましあって死んだ方が、まだちっとはましだろう」
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とても面白かったが、コロナが出始めたところに読まなくてよかったと何度も読んでる途中に思うほど色々リンクしてて驚いた。
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舞台は、冷戦が続く1973年。生物兵器として開発された新型細菌が謀略によって秘密裡に運搬される途中、事故で流出し、南極基地の1万人を残して人類は滅亡してしまう。果たして人類は「復活の日」を迎えることが出来るのか? 今のコロナ禍の情勢と重ね合わせて読むと、本当にゾッとする。人類を滅亡の瀬戸際まで追い込んだ細菌MM-88は、もともと地上にあったものではなく、宇宙から採取してきた細菌を元に何世代も培養することで生物兵器として毒性を高めた、米ソの対立構造の産物だった。人類がほんの2か月くらいで滅亡してしまうというのはとてもじゃないが現実的とは思えない(し想像したくもない)が、新型コロナウイルスが全世界的に流行してもう1年以上経つのにまだ終息しないのを見ると、致死率がほぼ100%の、しかもどこから来たのかも分からない(ように見える)未知のウイルスがあったりしたら、ひょっとすると…と、どうしても考えてしまう。作中、あまりにも人がバタバタと死にすぎるものだから、遺体の回収が追いつかず、道の至るところに遺体が積み重なっているというのが生々しい。 本書の中盤、南極を除き世界から殆どの人が姿を消す中、電波を通じて、聴く人が居るのかもわからない文字通り最後の(最期の)講義を届けようとするヘルシンキ大学の教授の話が心に残る。「これはまったく–無意味な終末…ナンセンスといっていい終末であります。(中略)人類は、あまりにも人間的なことにかかずらいすぎました。(中略)人間はただその弱さから、自己自身、つまり人間的なものにのみかかずらい、虚無と、物自体の深淵のほとりに立つ、自己の真の姿を–卑小にして高貴、すべてにして無、万能にして無力、物そのもののような残酷さと、精神そのもののような無限のやさしさにみちた自己のあらわな姿を、直視する勇気を、ついにもたなかったのであります。(中略)みなさん…私はいま…泣いております…涙が流れるのをとめることができません。人間は–人類は…もっと別のものになりえたはずでした。(p.273)」 「我々はこうするべきだ」と言うにはもうあまりにも遅く、「我々はこうするべきだった、もっと上手くやれる筈だったのに」と嘆くことしか出来ないのが悲しい。無難なことしか言えず恐縮だが、それでもやはり人類は少しずつしか変わっていかないと思う。動きを一度に変えるには、人類の「慣性」はあまりにも大きすぎる。それでも、いやだからこそ、手の届くところからでも少しずつ良くしていこうという気概を持つことを決して忘れてはならないのだと、そう思わされた。 最後は細菌への対抗策が見つかるのだが、その対抗策というのが生き残った人類にとってあまりにも皮肉なもので、単にめでたしめでたしでは終わらせないその結末の「一筋縄ではいかなさ」が、とても良い。
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「復活の日」は児童書を先に読んだので、この新刊で2度目ということになる。人類が滅びていく過程がとても長く、つらくて読み進めることができなかった。 南極人1万人余りになってからは一気に読めた。 それにしても、生物兵器が人類を滅ぼし、核兵器(中性子爆弾)が救うことになるとは何とも皮肉...
「復活の日」は児童書を先に読んだので、この新刊で2度目ということになる。人類が滅びていく過程がとても長く、つらくて読み進めることができなかった。 南極人1万人余りになってからは一気に読めた。 それにしても、生物兵器が人類を滅ぼし、核兵器(中性子爆弾)が救うことになるとは何とも皮肉だ。
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昨日読んだ『渚にて』に影響された本書を手に取った。コロナ禍ということもあり、コロナ以前に読むのとでは、感情移入度が違うんだろう。 『渚にて』はある意味、綺麗な人類最後の日で、人々がパニックの中で死んでいく様子も、街中に転がっている死体にも言及がない。また最後が確定されている中で...
昨日読んだ『渚にて』に影響された本書を手に取った。コロナ禍ということもあり、コロナ以前に読むのとでは、感情移入度が違うんだろう。 『渚にて』はある意味、綺麗な人類最後の日で、人々がパニックの中で死んでいく様子も、街中に転がっている死体にも言及がない。また最後が確定されている中でそれをどう受け入れるかという話であった一方で、本作はそもそもこれはなんなのだ?と思っている中で、どんどん死んでいくという様子が描かれている。コロナも「私はきっとかからない」と思っている節があって、「インフルエンザなんかで死ぬわけがない」と思っていた人々の描写は、緊急事態宣言がまた出ようとしている今でさえ、やはり重なってしまう。 また偶然というのは何回も重なることがある事例については最初から言及され、最後の中性子爆弾に、ヨシズミの行く末につながっていく。そういう意味では人類にとって希望あふれるエンディングだった。この地球の歴史の中では数多の種族が絶滅しているのに、新参者の人類が「私たちは高等生物だから」と生き残れるのはご都合展開なのだが、作者はそれも分かっていながら、こういうエンディングにしたのだろうなあ。このエンディングは好き嫌いは分かれそうだけれど、まあ良いのではないでしょうか笑
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図書館で。 面白かった。これが1960年代に日本人によって書かれたとは誇らしい。でも今回のコロナがなかったら読む機会はなかっただろうなぁ。 生物化学兵器の不作為な流出により絶滅寸言の人類。各地での滅びていく様パンデミックの様相が痛々しくリアル。 残された南極人たちの運命は。。 映画化したら面白いだろうなぁ〜。
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小松左京、やっぱりすげえ。 これで、1964年の作。医療崩壊から軍事上の危機まで、ほんま、今の状況とダブって、正直怖かった。 それにしてもこの博識。新型ウィルスの説明は、何だか判ったような判らんかったような感じではあったけど。いろんなアイデアをバシバシぶっ込んであった。 ただ...
小松左京、やっぱりすげえ。 これで、1964年の作。医療崩壊から軍事上の危機まで、ほんま、今の状況とダブって、正直怖かった。 それにしてもこの博識。新型ウィルスの説明は、何だか判ったような判らんかったような感じではあったけど。いろんなアイデアをバシバシぶっ込んであった。 ただ、やっぱり色んなところに古さは感じるし、人間描写が今ひとつで、語りがうざいところもあって、好きな作家かと言われれば、そうでもないかな。相当初期の作品だし、もうちょっと、他のも読んで見ますか。
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