幼年 水の町 の商品レビュー
『突き落としたわけではない。が、なぜこんなにはっきり覚えているのだろう。そしてなぜ、罪の意識があるのだろう。自分の家で痛い思いをさせてしまったから? あるいはまさか、わたしが背中を突いた?』―『池の匂い』 小池昌代の幼い自分自身に対する逡巡はどこか身に覚えのある戸惑い。在りたい...
『突き落としたわけではない。が、なぜこんなにはっきり覚えているのだろう。そしてなぜ、罪の意識があるのだろう。自分の家で痛い思いをさせてしまったから? あるいはまさか、わたしが背中を突いた?』―『池の匂い』 小池昌代の幼い自分自身に対する逡巡はどこか身に覚えのある戸惑い。在りたい自分と実際の自分の乖離。あるいは寄る辺なき孤独。自身の五感と行動のずれ。入力信号を解釈する脳と出力信号を決断する脳の不一致。それは大人となった今でもしばしば起こっていることだが、やり過ごせる鈍感さをいつの間にか身につけている。しかし鋭敏さの固まりである子供にはその矛盾をどう収めたら良いのかが判らない。いや大人も解っている訳ではなく無視するよう自分を騙すことが出来るようになっただけ。 現実の世界にある不合理はまた無意識の世界にも忍び込む。英語のドリームには希望の響きがあるけれど、日本語の夢には非現実なことにいつまでもこだわる未練たらしい声が聞こえる。そして、そんな夢みたいなことばかり言って、と非難される。子供みたいに、と。子供は夢見がちと相場が決まっているらしい。ところで空を飛ぶ夢は誰でも見るものなのか。オースターもそんな小説を書いていたことをつらつら思い出す。しかしその「能力」は幼年期限定と判で押したように決まっているのは何故なんだろう。自分は未だに時々見るけれど。だからといって現実世界でも自分は飛べるんだとは感じたことはない、この詩人のように。 『その下にはふてぶてしい肉体が広がっているにしても、驚くべき鋭敏さをまとった幼児の皮膚である。それはただの薄い表皮ともいえず、何か心のようなものと直結している』―『女以前』 小池昌代の文章に漂う湿り気は、育った町に漂う空気、あるいは雨に濡れた木肌の放つ匂いや滑り気が醸成したもの、などとつい読み解いてしまいたい誘惑に駆られる。しかしそれはそんなナイーヴな仕組みではなく詩人の意図が介在することも理解する。その湿り気と女性性を詩人は意識的に重ねてみせるのだ。それは後年作家が獲得した感情に対する解釈を幼年期の自分の曖昧な感情に投影した結果なのだということ。その意図を理解した上でつい、小悪魔的な、と口にしてみるが、悪魔の前に付くこの一文字に幼年期の無意識の性的行為に繋がる意味を発見して驚く。しかしそれもまたどこまでも大人の理屈であって子供に意図がある訳ではないけれど。 いや、本当に子供に意図はないのか。幼い自分には未知の現実ではあったろうが何も知らなかったと言えるほどに無知だったのか。詩人はそんなふうに踏み込んでみせる。人は女に生まれるのではなく女になるのだとフランスの知性は言ったけれど、人はやはり女になるのではなく生まれつき女なのではないか、と問うかのように。もちろん大人の理屈で定義される女と子供自身が持て余す肉体に宿る女性性とは同じものではないだろうけれど。その不一致を敢えて重ねて言葉にし直すのがこの作家の特徴であり小悪魔的な魅力でもあるのだと認識する。 小池昌代の魅力を知ることになった「あたりまえのこと」という詩はこんな風に始まる。「男の大きな靴をはいてみた。ら、あまってしまって。/それがまた、がぽがぽ、というような、えらくひどいあまりかた。」この何気ない出来事に触発された既視感を詩人はやり過ごさず幼年期の逡巡に結び付ける。この後の展開は大人の女である詩人によって再定義された感触が換気する感情へと読み代えられていくのだが、その詩が生まれる過程をつぶさに見せてもらったような気になる一冊。次は詩集を読むことにする。
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