永遠のファシズム の商品レビュー
本書には5篇の講演や書簡が収められているが、著者独特の言い回し(と思われる)が、翻訳にも困難を齎したらしく、原註だけでは理解できないところが多々あった。 表題にもなっている講演は、ファシズムの源流に遡る解説が興味深かった。
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あのウンベルト・エーコもこのような政治的論評を折に触れて書いていたのか、と驚かされるような本。 白眉は最初のふたつの文章で、さすがエーコ、という感じの思考のキレを見せている。 1991年、湾岸戦争の最中に書かれた「戦争を考える」においては、地球を滅ぼすだけの核兵器、多国籍企業の活...
あのウンベルト・エーコもこのような政治的論評を折に触れて書いていたのか、と驚かされるような本。 白眉は最初のふたつの文章で、さすがエーコ、という感じの思考のキレを見せている。 1991年、湾岸戦争の最中に書かれた「戦争を考える」においては、地球を滅ぼすだけの核兵器、多国籍企業の活躍による「国家」間の単純な対立の無効化、独裁政権によっても制御しきれない情報の流通、権力なるものはもはや一枚岩のようなものではないこと。 これらのことから、エーコはいまや、「戦争は不可能だ」と結論する。 「戦争の不可能性を明言することは知識人の義務である。」(P21) にも関わらず「戦争」を自称するアメリカによるイラク攻撃。「戦争、それは浪費である。」(P23) これらはなかなかの名言ではないか。 1995年にアメリカの大学で講演された「永遠のファシズム」は、イタリアのファシズムを少年時代に経験したエーコが、ナチズムをも参照しつつ、ファシズムの典型的なモデルを「原ファシズム」として呈示する。 以下の特徴のどれかひとつでも持続的に確認できたなら、それは「原ファシズム」の兆候であるという。 ・伝統崇拝。そして混合主義。 ・モダニズムの拒否。テクノロジーの否定。 ・「行動のための行動」を崇拝。 ・批判を受け入れないこと。 ・異質性、余所者の排斥。 ・個人もしくは社会の欲求不満から生じるのが原ファシズム。 ・原ファシズムにとって生のための闘争は存在しない。あるのは「闘争のための生」。平和主義は敵との馴れ合いである。 ・エリート主義、弱者蔑視。そして大衆エリート主義。すなわち、われら市民は世界最高の人民に属するという妄想。 ・女性蔑視、男根願望。 ・多数意見に従う質的ポピュリズム。個人は個人として権利を持たない。 以上、何点か割愛したが、エーコが指摘するこれらの特徴の幾つかは、あきらかに、現在日本の安倍政権、自民党、ネトウヨ、右翼ではないけどなんとなくぼんやりメディアに漂っているような無批判的庶民の兆候にはっきりと表れている。 ファシズムは終わらない。それが蘇ってくる可能性はいつでも存在する。私たちはこれら原ファシズムの正体を暴き、ひとひとつ指弾することだ、とエーコは宣言している。 さすが超一流の知性はちがうな、と感心させられる。
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ファシズムはおそらく二度とナチスやムッソリーニと同じような形では立ち上ってこない。形をかえ、分かりにくく、常に、すぐ傍に「ファシズム」が潜んでいる。 以下、引用 自分と違う人、見知らぬ人への不寛容は、欲しいものを何でも手に入れたいという本能と同様、子供にとっては自然なこと...
ファシズムはおそらく二度とナチスやムッソリーニと同じような形では立ち上ってこない。形をかえ、分かりにくく、常に、すぐ傍に「ファシズム」が潜んでいる。 以下、引用 自分と違う人、見知らぬ人への不寛容は、欲しいものを何でも手に入れたいという本能と同様、子供にとっては自然なことだ。子供は、自分の括約筋を操れるようになる以前から、他人の所有物を尊重するようにと、少しずつ寛容性を教育される。誰しも成長につれ自分の体はコントロールできるようになるが、不幸なことに、寛容は、大人になっても永遠に教育の問題であり続ける。なぜなら日常生活のなかで人は常に差異のトラウマにさらされているからだ。 野蛮な不寛容は、やがてあらゆる未来に人種主義的教養を提供することになる、カテゴリーの短絡に基づくものだからだ。つまり、もしも過去数年にアルバニア人が泥棒や娼婦になったとすれば、アルバニア人はみんな泥棒で娼婦になると考えるのである。
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