原理 の商品レビュー
『そのとき、神の肩ごしに見ることが、ときにはたいへんな代償をともなうことに、あなたは気づいただろうか。神という隠喩がなにを指すにせよ、それは恐怖の支配者でもあり、恐怖の眩暈は、おそらく、美の眩暈をしのぐ力を発揮しうるからだ』―『位置』 最近読んだ「シュレディンガーの猫を追って」...
『そのとき、神の肩ごしに見ることが、ときにはたいへんな代償をともなうことに、あなたは気づいただろうか。神という隠喩がなにを指すにせよ、それは恐怖の支配者でもあり、恐怖の眩暈は、おそらく、美の眩暈をしのぐ力を発揮しうるからだ』―『位置』 最近読んだ「シュレディンガーの猫を追って」と「その日の予定」の、ちょうど中間に位置するような小説。ゴンクール賞作家を追いかけている訳ではないけれど、フランスの作家たちの史実と虚構を織り交ぜる物語の紡ぎ方に、あるいは惹かれているのかも知れない。そのこと自体特別な手法ではないけれど、語り手の思弁が散文的に歴史上の人物の思考に時間も空間も越えて侵入していくような語り口は、この三つの作品に共通する少し特別な特徴のように思う。特にこの「原理」はその過去への働きかけの度合いが強い。特定し得ない一人称の人物の思念が歴史上の人物に足元からじわじわとまとわりつき這い上がっていくような関わり方が印象的。 本書は第二次世界大戦前後のハイゼンベルクの生き様を描いた伝記的小説とも言えるが(訳者あとがきによれば登場人物たちの語る言葉は全て記録に残るものだという)、物語が追いかけるのはこの天才が追求し続けた「原理」とは何だったのかということ。もちろん、それは「不確定性原理」を通して物理学者が見極める事象の本質のことではなく(と言いつつ、ハイゼンベルクが世界をどう捉えていたのかについての思考もまた小説の中の重要な要素ではある)、ナチス政権下で軍に協力しながら研究を続けたハイゼンベルク自身の信条はどのようなものであったのかということ。それは抽象的に「白バラ」と「銀の弦」という言葉に集約されていくが、その意味するところは決して詳らかにはならない。けれども、その言葉が使われる文脈の中での響き方を感じることで、ある程度理解はできる。たとえそれが、極端に繊細で純粋な理想であったとしても、ハイゼンベルクが母国に留まり続けた理由のようなものに繋がっていることも。 『わたしたちは、なにも語らず、なにも隠さないデルポイの神ではない。わたしたちが口にするのはただの人間の言葉だ。それは不完全に世界をあかるみにだすか、ウソのなかに埋めこむ――そこで、完成にいたる』―『時間』 直接の言及はないが、ヴィトゲンシュタインの「論考」が本書の中で度々暗示されているように感じるのは気のせいだろうか。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という命題は、不確定性原理と共鳴し合うものとして、そしてまたハイゼンベルクの選択の理由として、「原理」という言葉に対して二重の意味合いで関わっているようにも思える。この命題は多くの場合不可知論的な文脈で用いられるけれど、「論考」が主張するのは、指し示すことは出来ても言語という論理体系の中では語り得ぬことがある、ということ。それを踏まえれば、不確定性原理の指し示す先で消失したかのように見える「実在」もまた、人間の考える癖(論理体系)の中でそう見えるだけで、ハイゼンベルクには行列式が示すものこそが存在の意味するところだったのだということが、不正確ながらも了解し得る。一方で選択に関する意味合いはやや不可知論的に著者によって語られる。他人の記した言葉が(よしんばそれが自分自身が語った言葉の記録とされるものであったとしても)正しく自分自身の主張を伝えるものであるとは限らないが、それについて語ることに価値を認めないという態度をハイゼンベルクがとっていたかのように物語は暗に主張し、ただ繊細で純粋な理想のみを語ることで充分なのだ、という結論に収束していく。『どうかごらんになっておっしゃってください。これほど美しいものをこれまで見たことがありますか?』この言葉を巡る、時間も空間も越えた史実と虚構の交錯のエピローグはとても強い印象を残して閉じる。
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平成も終わろうとする中で、、昭和に開発された核、原子炉。被害が叫ばれる中、未だに稼働し続ける圧倒的なエネルギー量。量子力学の発明でノーベル物理学賞受賞したハイゼンベルクは戦時中、国内で核の可能性を研究し続ける。敗戦国の物理学者はあまり知る人は少ないが、偉大な人物だと思います。
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