弥生時代って,どんな時代だったのか? の商品レビュー
題名は柔らかいですが、内容はかなり硬い専門書です。テーマ自体は、私の興味関心に80%フィットしているので紐解きました。国立歴史民俗博物館研究業書1という位置付けである。私の理解度が不足しているとは思いますが、著者の幾人かは、大きなテーマを掲げながらも、やはり事実のみを書いて弥生時...
題名は柔らかいですが、内容はかなり硬い専門書です。テーマ自体は、私の興味関心に80%フィットしているので紐解きました。国立歴史民俗博物館研究業書1という位置付けである。私の理解度が不足しているとは思いますが、著者の幾人かは、大きなテーマを掲げながらも、やはり事実のみを書いて弥生時代全体に対する自分のビジョンを持っていないように思う。小さな発見で良しとしていて、寂しい。 前からのファンだからということでもないのだが、この博物館ではやはり藤尾慎一郎氏と松木武彦氏、そして山田康弘氏が突出している。 特に松木氏の岡山平野の人口変化を分析して弥生時代全体の社会の変化を概観した論文と、弥生時代の金属器の歴史と意味を書いた藤尾氏の論文から多くの知見を得たので、以下に私的メモを置く。 「むら、まち、人口」松木武彦 ・前期(BC8-5) 竪穴建物と地上式建物と土こう墓がセット。数個集まってむらが形成(南溝手、津島)。微高地。特異なむらとして環濠むらがある(百間川沢田)。6-10棟の竪穴建物と数基の土こう墓、中には円形周溝墓、松菊里式建物もある。しかし、周りの建物の家族と対立、不平等であった痕跡はない。もちろん戦いの跡もない。岡山平野に環濠集落はこれだけとも言える。 ・中期前葉ー中葉(BC4~3) 前期と比べて竪穴建物は4.5倍、むらも2倍。順調に人口が増える。(百間川兼基・今谷、津島・南方、加茂政所、窪木) ・中期後葉(BC2~1) 建物は約5倍、むらは約2.8倍。用木山、矢部堀越、千引のように丘陵尾根や斜面・裾など高いところに立地。居住域から墓域の独立。屈肢葬から伸展葬へ。木管の一般化。 ・後期(AD1~2) 後期前半では建物は約3倍、しかし、むらの数は横ばいか微減。高地むらの消滅。 後期後半(AD2)特定のむらに竪穴建物が集中(百間川原尾島、津島・伊福定国前、矢部南向・加茂B)。墓の階層化。そのトップに楯築が現れる。 楯築の周りには、岡山平野の竪穴建物の約6割強が集まる。特に、高塚・加茂B・矢部南向にはそれぞれ60・36・25の建物が集中。 ・弥生から古墳移行期(AD3) 建物は後期後半の1.8倍。津寺への人口集中(総数264)。山陰・四国・近畿からの土器の搬入。居館・神殿・倉庫群・防御施設はない→まち。共同墓地(前山)から個人や家族が別個に墓を営む(殿山、七つぐろ古墳群、宮山、浦間茶臼山)。 ・こうやって、松木氏は弥生時代全体を概観する。少ない人口と緩慢な変化があった前期、人口の急増とそれによって社会が複雑化して競争や結束、帰属感などの変化の促進(人工物の形式変化)があった中期。そして人口の不均等化と流動化があった後期。吉備では人口は増えたが近畿では減ったという。←気候・大災害があった可能性はあとで考えるらしい。そして「まち」と古墳の出現の弥生古墳移行期。この時期、人工物型式の地域色が薄まる。つまり、青銅器などの複雑な文様は必要としなくなった。これは墓が共同墓地から個人・家族に移ったのと関係しているはず。 「金属器との出会い」藤尾慎一郎 ・近畿の鉄器出土量は、倭国乱で変化なし。リサイクル用の鍛治炉もAD3後半にならないと増加しない。よって、古墳時代開始の要因に「鉄」は考えられない。祭祀や政治の要因で考えるべき。 ・朝鮮半島の製鉄について大きな勘違いをしていた。AD3以前の製錬炉は見つかっていない。ただし、2~3世紀には鉄器と鉄素材の生産量は増大(隍城洞のは四世紀の精錬だった、製鉄炉は四世紀石帳里遺跡)。一方、倭国では四世紀の製錬炉はないが精錬炉はある(纒向、博多、沖塚)。 ・弥生長期編年の場合、稲作開始から600年間は鉄器なしでやっていた。BC4以前は、森を伐採、水路を通し、造田、杭や矢板の製作、木製農具の製作を全て石器で行っていた。 ・BC4、燕直接か、半島経由か、鉄器輸入開始。 ・BC2で北九州で鉄器本格使用。武器にも使用。奴国では鉄器出土量が他国を圧倒。板状鉄製品があるので、加工もしていた。 ・北九州では中期末には、穗摘を除いて道具は全て鉄器化する。 ・本州では東に行くに従い、鉄器普及は低下。大陸側の事情なのだろう。 ・古墳時代成立、古墳造営にも鉄器普及は影響しなかった。 2018年7月読了
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