切腹考 の商品レビュー
人が生きて死んでいくということを、しっかりと目をそらさずに見つめた「地震」。詩人の感性とは、かくも凄絶なものであった。
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人の生と死は、 決して他人には本当の意味で 理解が難しい、 のだと思いました。 表面に見えるものと真実との間には いつだって深い距離があるのでしょう。
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切腹愛好家なんてジャンルがあったんですね。 切腹って『よく出来るな』『昔は大変だったのだなぁ』 と思いつつ、自分は絶対出来ないだろうに、気になって本を読んで『凄いなーハラキリ』と思っていました。エロスとは結び付かずにいましたが、無意識に気になる事がすこし怖い。人には言えない。
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「切腹考」「鴎外先生と私」「どの坂もお城に向かう」「先生たちが声を放る」「弥五右衛門」「マーマイトの小瓶」「普請中」「ばあさんとぢいさん」「ヰタ・リテラーリス」「山は遠うございます」「隣のスモトさん」「阿部茶事談(抄)」「ダフォディル」「地震」(森林太郎トシテ死) 全編から生々し...
「切腹考」「鴎外先生と私」「どの坂もお城に向かう」「先生たちが声を放る」「弥五右衛門」「マーマイトの小瓶」「普請中」「ばあさんとぢいさん」「ヰタ・リテラーリス」「山は遠うございます」「隣のスモトさん」「阿部茶事談(抄)」「ダフォディル」「地震」(森林太郎トシテ死) 全編から生々しく、懐かしく、「血」の匂いが漂ってくる。 題字の色も形も、読後は別物に感じる。凄い本を読んだ。
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伊藤比呂美の(書いたものの)追っかけとしては、太宰に惑溺していた彼女が鴎外に向かったのは遅すぎたくらいな気もするが、夢中になる時期というのは人の個人的な状況とも密接に関係しているのだなと思う。 伊藤さんの場合は夫の死があったのだ。 性も出産も閉経も赤裸々に語る伊藤さんだから、...
伊藤比呂美の(書いたものの)追っかけとしては、太宰に惑溺していた彼女が鴎外に向かったのは遅すぎたくらいな気もするが、夢中になる時期というのは人の個人的な状況とも密接に関係しているのだなと思う。 伊藤さんの場合は夫の死があったのだ。 性も出産も閉経も赤裸々に語る伊藤さんだから、もちろん夫とも積極的に語り合い、少なくとも二人の間においてはかなりの部分で共感し、わかりあっていたと(前夫も含め)思っていた。しかもお互い知的、創造的な仕事をし、経済的に依存しているわけではないのだし。 だから、三人目をアメリカで生んだ時の思いには胸を突かれた。 夫に、お前は俺より仕事が大切なのだと言われた時 「何を言うか、これまであなたはどうやって生きてきたか、あなたにとって、仕事がわたしより大切じゃなかったことがあるか、あの日あのとき、あたしは赤ん坊を生みたてで、一人ぼっちで、大切にしていた上の子どもたちもそばにいなくて、あたしは赤ん坊を生みたてで、一人ぼっちで、あの日あのとき、あなたは来る日も来る日も締切だと言って、締切だといって、わたしをほったらかして仕事場に戻っていった、それを覚えていないのか」(P273~274)。 まさか伊藤さんもこんな思いをしていたとは。これと同じきもちで生きている女がどれほどたくさんいることか。 知的で大胆で自立している伊藤さんですらそうなのだ。 これは男にこそ、夫にこそ読んでほしい たとえばこんなくだりもそう。 「やがて夫婦の間に、出るべくして出る問題があらわれてきた。他人の感覚を共感できるかどうか。柔軟性があるかどうか。他人を支配したいかどうか。プライドがあるかどうか。そういう要素が細かく混じり合って関係性が膠着したり緩んだりする。そこに性がからむ。社会的な性差がからむ。ストレスや食い違いが出て悩む。」(P128~129) 外国に住めば明らかな人種差別にあい、言葉がわからない、出てこないことを無知のせいだと馬鹿にされる。さらにはご親切に解説してくださる。遅れた日本の女に、親切心で。 繰り返すが、もちろん平均よりずっと知性教養のある伊藤さんですら、今(私から見れば)かなり巧みに英語を操っているように見える伊藤さんですら、こうだ。 いつも伊藤さんの本を読むと共感もするけれど、知らなかった真実を突き付けられる。夫婦、親子、体、老い、死、異国での暮らし。 「トイレに自力で行けなくなったら死にたい」という人は多いけれど、実際に老いてあるいは体が不自由になったら、そうは思わないのだということを、身近な人の死に近い様子を見るようになってからわかるようになった。 それを伊藤さんはこう書く。 「人は生きたい。歩けない、動けない、食べられない、人前で排便してそれを拭いてもらう、身に余るそれらの不自由があっても、人はなお生きたいのだ。」(P241) なのに、生きたい体を殺す切腹とはどういうことか、とつながるのである。 切腹、鴎外(特に「阿部一族」)、前夫との別れの経緯、アメリカで暮らすということ、現夫の看取りと死、様々な要素がありながら深いところで一つにつながっている。 これもまた、伊藤比呂美にしか書けない詩なのだと思う。 若い頃もすごかったけど、老いるほどに凄味が増していく伊藤比呂美からは目が離せない。 今までも、太宰、説教節、鳩摩羅什など影響されて読み返したり初めて読んだりしたが、今回も数十年ぶりに鴎外をきちんと読み返したいと思った。
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20170715読了 2017年2月発行。一冊ぜんぶがひとつの詩のようだ、と思う。切腹の(鑑賞)体験、鷗外(鷗外の文体を読み解いていくうちに筆者の文章もその文体に飲み込まれる)、母国外で生きるということ、夫との最期の日々。●ベルリンの鷗外記念館の図書室でこの本を知る。ちゃんと11...
20170715読了 2017年2月発行。一冊ぜんぶがひとつの詩のようだ、と思う。切腹の(鑑賞)体験、鷗外(鷗外の文体を読み解いていくうちに筆者の文章もその文体に飲み込まれる)、母国外で生きるということ、夫との最期の日々。●ベルリンの鷗外記念館の図書室でこの本を知る。ちゃんと116頁に付箋が貼ってあった。出版から3か月後にもうここにあるなんて…筆者が献呈したのか?副館長のBさんが鷗外関連の書籍をめざとく見つけたのか?
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何やら穏やかでないタイトルだが、切腹といわれて普通に思い浮かぶ、武士の「切腹」が本書の主題ではない。 最初の章こそ切腹が主テーマに据えられるが、それとて「切腹マニア」なる人々が主である。切腹マニアというのは、切腹そのものに快感を覚え、自分で腹を切ってみたり、切腹に関する写真や映像...
何やら穏やかでないタイトルだが、切腹といわれて普通に思い浮かぶ、武士の「切腹」が本書の主題ではない。 最初の章こそ切腹が主テーマに据えられるが、それとて「切腹マニア」なる人々が主である。切腹マニアというのは、切腹そのものに快感を覚え、自分で腹を切ってみたり、切腹に関する写真や映像を集めたりする嗜好を持つ人々である。著者は自分で行うわけではないが、その方面に興味があり、若い頃、割腹の実演(もちろん死には至らない)を見たこともある、といった話である。 ところがそこから話は意外な展開を見せる。 著者はカリフォルニアを生活の拠点とし、年老いた画家のパートナーと暮らしている。日本とも縁が切れたわけではなく、熊本の家とカリフォルニアを行ったり来たりしている。 2章以降はそうした日々の中、著者の感じたこと、考えたことが中心になる。 鷗外、熊本、古武術、鷗外、ロンドン、ベルリン、鷗外、前夫、カリフォルニア、「阿部一族」、ラッパ水仙、熊本地震、老夫の死。 いや、切腹の話はどうなってしまったのか、といささか戸惑うわけだが、例えば鷗外の著作で知られる「阿部一族」は主君の死に殉じて切腹する人々が描かれるわけで、あながち切腹と関係ないわけではない。 ただ、読み進むうちに、表面的に切腹がどうというよりも、もう一段著者の意識の深淵に降り、言葉の白刃で、身近に起こった出来事や読んだ本、自身が感じたことを切り結んで行っているようにも見えてくる。 著者が最初から本書の形式を予想していたのか、それとも自身の生活に引きずられるように最初の構想が変わっていってしまったのか、私にはちょっと判然としないのだが、ともかくも「切腹考」というタイトルに引きずられて読み始めたはずなのに、何だか違う話になっていくような、それでいて赤い血が迸り出るような描写に、読者は息を呑んでついていくしかないのである。 煎じ詰めればこれは詩人による、エッセイの形を借りた「詩」である。 カリフォルニアの地で、不自由な英語を抱えつつ、著者は鷗外を読む。 著者は、鷗外に非常に惹かれているようだが(漱石は「おもしろいけど、感じ悪い」のだそうだ)、いささか意外な感じがする。両者をもう少し読み込むと呑み込めるのだろうか。それは異国の地であったからこその出会いなのか、それとも日本にいるときから惹かれていたのか。端正な文章の鷗外と、型破りな著者と。だがどちらも説経節や古典に材を取ったところは似ているといえば似ているのだろうか。 鷗外作品についての考察もあり、鷗外が実は同じ女を繰り返し描いているというのもおもしろいところ。知的な強い女、好奇心の強い女である。「舞姫」のエリスは例外で、これは西洋文学から抽出したステレオタイプな美少女像であるという。「ぢいさんばあさん」「最後の一句」「安井夫人」「文づかひ」。そうした作品に繰り返し出てくるのは、才気があり、辛抱強く、よく働き、反抗的な女だという。そうした女たちに著者は自身を重ねる。 終盤近くは、頑固な異人の夫が病み、老い、息を引き取るまでが中心になる。 介護や仕事で忙しい日々。日本にも行かねばならない。そうこうするうちに熊本では地震が起こる。夫は徐々に出来ないことが増える。 病室の椅子で、青空文庫の鷗外を読む。死ぬとはどういうことか考える。夫の様を観察する。隣人と渡り合う。 そんな日々である。 つまるところ、詩人、伊藤比呂美が何を書いてもどんな形式でも、それは「詩」なのだ。というよりも、伊藤比呂美は「詩」を生きている。たとえ切腹を見ようが、たとえ鷗外を読もうが、たとえ外国で不自由な言葉を操ろうが、たとえ夫が息を引き取ろうが、彼女は常に詩人である。 ずぶりずぶりと言葉の白刃が世界を切る。すぱりすぱりと伊藤比呂美は断片を腑分けしていく。鮮血が散る。 奇妙な迫力である。不思議な潔さである。
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どんどん丸くなる作家が 多い中で これだけの 生臭さはすごいとしか言いようがない 熱気のむんむんとこもった本書は エッセイと気楽に言っていいのやら 迷われる内容です 以前に読んだものが まだ健康的で女性の体温が 感じられるほど温かかったのですが 本書では 切腹やら ご主人の最...
どんどん丸くなる作家が 多い中で これだけの 生臭さはすごいとしか言いようがない 熱気のむんむんとこもった本書は エッセイと気楽に言っていいのやら 迷われる内容です 以前に読んだものが まだ健康的で女性の体温が 感じられるほど温かかったのですが 本書では 切腹やら ご主人の最後やら かなり死の色が濃く出ていました
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ずーんとお腹にこたえるような内容で、なかなか感想を書く気にならなかった。切腹と鴎外と夫の死。「生きる死ぬる」についての三題噺といったところだろうか。流れるような文章はいつも通りだが、今度ばかりは読むのにちょっと難儀した。 まず「切腹」だが、ここがよくわからない。切腹マニア(!)...
ずーんとお腹にこたえるような内容で、なかなか感想を書く気にならなかった。切腹と鴎外と夫の死。「生きる死ぬる」についての三題噺といったところだろうか。流れるような文章はいつも通りだが、今度ばかりは読むのにちょっと難儀した。 まず「切腹」だが、ここがよくわからない。切腹マニア(!)はもとより、著者の思い入れにもついていけず、気持ちが引いてしまう。流れる空気が濃すぎてあっぷあっぷする。 次に「鴎外」。著者は「舞姫」のエリスは「定型をなぞったヒロイン」で「つまらない女」だと一蹴し、「阿部一族」や「興津弥五右衛門の遺書」について語る。私は「舞姫」以外の鴎外が、これまたよくわからない。ただ、よく語られる「ドイツに残した恋人を生涯思い続け、自分を押し殺して生きた」というような、ロマンチックな人物ではなかろうという著者の考えには、まったく同感だ。鴎外研究と言えば「舞姫」関連しかふれたことがなかったが、これはあまりにも偏っていたなあと今さらながら気がつく。 そして「夫の死」。年の離れた高齢の夫が死に向かう様を、詩人は容赦なく書く。ずっと寄りそい、世話をし、死にゆく人と自分をひたと見据えて、言葉にしていく。息詰まるような筆致で、ここは本を措くことができなかった。こういう眼で物事を見、それを書かずにいられないということの苦しさをつくづく思う。 自らの来し方を振り返って書かれている箇所も、心に残って離れない。「おなかほっぺおしり」も「ポーランド行き」も、かつて楽しく読んでいた。うすうすわかってはいたけれど、実際の人生は、それらに書かれただけのものではなかったのだ。胸が痛くなってしまった。
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鴎外の小説は、若い時に数だけは割と読んだが、ちゃんと理解してたとは言い難く、また読みたいと思った。大好きな伊藤比呂美さんと鴎外とが繋がるとは思っていなかった。 そのほかに夫の介護、死、熊本地震、前夫との生活など、いろいろ考えながら読んだ。 特に、個人的にそうだそうだと思ったこ...
鴎外の小説は、若い時に数だけは割と読んだが、ちゃんと理解してたとは言い難く、また読みたいと思った。大好きな伊藤比呂美さんと鴎外とが繋がるとは思っていなかった。 そのほかに夫の介護、死、熊本地震、前夫との生活など、いろいろ考えながら読んだ。 特に、個人的にそうだそうだと思ったことが合気道について書かれたところ。 "アメリカの文化の中で合気道に魅せられて長くつづけていこうという人は、一様に、とても穏やかで辛抱強い人たちだ。しかしよくよく内面を覗き込んでみれば、それだけではない。先生たち、先輩たちを観察していると、よくわかる。みんな、人とのつきあい方や、生き方が、どうもぎくしゃくしているのである。内には攻撃性が潜んでいる。それを持て余している。合気道の型で封じ込めてなんとか保っていられる。そういう人が多い。真面目で、艱難辛苦を乗り越えることを歓ぶ。そういう人が多い。" 62ページ 合気道を始めようとしたものの、早々に逃げ出した。どうしてそうなったのか、情けなさとともにまだそのことが思い出される。 言い訳ではあるのだが、最近、タイプが違ったなと気づいていた。もちろん色々な方がおられるのだろうが、多くの人がまさに伊藤さんが指摘されているような人なのだ。そして、私は全く違う。 やっぱりそうだよなと自分への言い訳の正当性が高まったようでうれしい。
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