未開社会における性と抑圧 の商品レビュー
現代人類学初期の立役者であるマリノフスキーが、フロイトの精神分析理論に真っ向から取り組み、これに人類学的視点からの批判を加えるという、テーマを聞いただけで血湧き肉躍るような興味深い本である。 初版は1927年だが、それ以前に書かれた前半部と後半部で内容が分かれている。 マリノフス...
現代人類学初期の立役者であるマリノフスキーが、フロイトの精神分析理論に真っ向から取り組み、これに人類学的視点からの批判を加えるという、テーマを聞いただけで血湧き肉躍るような興味深い本である。 初版は1927年だが、それ以前に書かれた前半部と後半部で内容が分かれている。 マリノフスキーはフロイトの学説に衝撃を受け、大いに敬意を払ったのだが、「エディプス・コンプレックスは、人類のあらゆる文明において普遍的根源的である」とするフロイトの説を修正せざるを得ず、彼への敬意からなかなか歯切れが悪く最後は中途半端な譲歩も示すものの、「性」に関する人類学的考察に関しては一徹に自らの方法を貫いている。 私見によれば、「トーテムとタブー」(1913)等でフロイトは自らのエディプス・コンプレックス論を普遍的な文化論にまで高めようとするあまり、これを再-神話化し、途方もないようで粗雑な、夢想的な文明論を開陳するに至ってしまう。私もフロイトが現代の知における巨大な偉人であることに異論はないものの、彼の理論はエディプス・コンプレックスにしろ去勢不安にしろ、どうも彼自身のコンプレックスを理論化したもののような気がし、当時のオーストリアの、ユダヤ系の非-貧民層という限定的な状況(社会)においては定式化し得ても、他の時代他の社会においてはそのままに適用できないのではないかという気がしてならない。再-神話化されたエディプス表象も、あまりにもキリスト教的である。 私のそのような懐疑は、本書のマリノフスキーの「健全な」学術的議論に同調した。マリノフスキー得意のトロブリアンド諸島の女系制社会の描写は冴え渡り興味深く、ヨーロッパ的社会とはまったく異なった「性」の自由なあり方の記述は面白い。 トロブリアンドでは子ども時代後期からすでに、子どもたちは「自然なままに」互いに性的遊戯を楽しみ、大人や社会がこれを禁圧することはない。この社会で性的抑圧があるとすれば、徹底的に禁忌されている「異性のきょうだいとの性的ニュアンスを伴いかねない親密さ」だけである。 また、母系制であるトロブリアンド諸島では、父親は子どもたちのよき友人ではあっても権威的存在ではなく、母方の叔父のみが、子に対する強大な権力を持つ。 こうしたメラネシアの民俗誌はたいへん興味をそそるし、途中で引用される彼らの神話を読むと、レヴィ=ストロースを想起させる部分もあった。 マリノフスキーは最終的にフロイトよりもシャンドの「情操」論により多く共感したようで、例の「近親相姦の禁忌の絶対的普遍性」という人類学の大問題については、近親相姦というあまりにも例外的な行為が、社会制度およびそれを支える人々の「情操」を破壊してしまうからだ、という、説得力のある仮説を呈示している。 「本能」は「可塑的」なものであり、社会形成のプロセスによって生物学的欲求は修正されるのであって、人間の「本能」はその結果、決して純-生物学的なものではあり得ない、とする著者の説も正しいような気がする。 フロイトがどうこうということは置いといて、本書はレヴィ=ストロース以前の人類学として実に充実した名著であり、かけがえのないものだと思う。
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