1,800円以上の注文で送料無料

火あぶりにされたサンタクロース の商品レビュー

3.8

6件のお客様レビュー

  1. 5つ

    1

  2. 4つ

    3

  3. 3つ

    2

  4. 2つ

    0

  5. 1つ

    0

レビューを投稿

2022/01/27
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

凄く面白い。クリスマスに贈り物をする行為にはキリスト教が存在する遥か古来の人々の根源的な恐れが発端となっているという解釈がされている。現在のクリスマスにあたる季節は冬至の時期にあたり、太陽の光が1年のうちで最も弱まるため、死者の霊が帰ってくると考えられていた。生者はそれを恐れ、死者の霊に扮した子供(社会参加が不完全であるため、生者と死者の中間に)への贈り物を通し、死者に贈り物の霊を渡すことで、黄泉の国へ帰って貰うようにした。その風習は贈り物

Posted byブクログ

2020/01/13

『火あぶりにされたサンタクロース』クロード・レヴィストロース著・中沢新一訳/解説 サンタクロースというのは何者なのか? サルトルが寄稿依頼をした本文献では、異教徒とキリスト教会の折衷、贈与世界という宇宙観を絡めながら説明していく。 クリスマスを考える上で、異教徒的な宇宙観でこの...

『火あぶりにされたサンタクロース』クロード・レヴィストロース著・中沢新一訳/解説 サンタクロースというのは何者なのか? サルトルが寄稿依頼をした本文献では、異教徒とキリスト教会の折衷、贈与世界という宇宙観を絡めながら説明していく。 クリスマスを考える上で、異教徒的な宇宙観でこの時期がどのように考えていたのかを抑えておきたい。秋から冬至にかけては、太陽の力が最も弱まる時期であり、多くの死者の霊が生者の土地に来訪すると考えられていた。生者は彼らに対して、様々な贈与を行うことで、冬至までの間に死者の世界に帰ってもらうよう懇願する。(ざっくりすぎるかもしれないが、日本でいうお盆に近いだろうか) その中で、死者に対して確実に贈与を行ったことを人々が認識されるためには、何者かが死者の代理とならなければならない。それが、未だイニシエーションを受けておらず、社会の成員として認められていないマージナルな存在たる子供や若者であった。古代ローマのサトゥルヌス祭では、この時期に、一切の身分や秩序を廃したヨコの連帯(無礼講)と若者組や子供組の組成というタテの分断が二つのダイナミズムとして現れる。前述の通り、若者組や子供組は死者の代理であり、子供組は死者の仮装をして生者やの世界に対して贈与を懇請する。(ハロウィンの風習である。)一方、若者組はその膨大なエネルギーを余ることなく使い果たし、放蕩や乱暴の限りを尽くす。このような、死者の代理としての、若者や子供に対して、生者として歓待し、贈与を行うことで、死者に対しての義理を果たし、次の秋までは現れないという確約を取り付ける。これが異教徒的な秋から冬至までの解釈である。 果たしてキリスト教会は、この太陽の力が弱まる時期=闇の時期に未来の救世主が誕生するというキリスト降誕の世界観を接ぎ木することで、異教徒的世界観を同化し、吸収したのであった。同時にキリスト教会は、この若者・子供たちの暴動と大人たちの歓待という厄介な冬まつりを引き受けねばならなかった。 このような厄介な冬まつりの伝統は、フランス革命に端を発する近代のエートスと啓蒙のムーブメントの名の下で、糾弾され、消滅していった。近代のエートスは社会から死者=他者=若者・子供という外部を徹底的に内部化していった。そして、啓蒙の名の下で、子供や若者は教育の対象として暴動や贈与の懇請を行うことを拒絶された。そして、それは近代社会の出現とともに、人間にとって「死」という存在が恐怖を感じるに足る存在ではなくなったことを意味しており、「死」への畏怖の減少は、子供・若者への畏怖の減少となり、彼らは都合よく社会に吸収をされていった。さらには、贈与という観念すら、商業主義の波の中に併合されかけていった。 しかし、贈与がもたらす人々への霊的な繋がりや、人々の深層心理に潮流する秋から冬至にかけての生命力の弱まりを、完全に駆逐することはできなかった。そこで、近代社会は、子供や若者を自らの内部においておきながら、彼らに贈与を行う外部から到来するイマジナリーな存在を要請したのである。それがサンタクロースである。サンタクロースは近代社会の中で、手を尽くしても駆逐することのできない「死」という外部の存在を鎮静化する為に、資本主義の中で、人々が深層心理で欲望する「贈与」を代理表象するために、生み出された想像的な外部である。まさしくチャールズ・ディッケンズがクリスマス・キャロルをして描こうとしたのは、資本主義精神を徹底的に身に着けたスクルージが、クリスマスに登場する霊的存在により、贈与により再教育され、死者に接近し、そして突き放されることで生命力を賦活される物語なのである。ここに、サンタクロースの出自が描かれるのである。 この本を読んでいて思うのは、ハロウィンの起源も、基本的には子供を通じた死者への贈与と歓待であることである。そして、ハロウィンにおいて、昨今社会を騒がせている問題が、渋谷の若者の暴動であるだろう。この本を読んで思うのは、所謂「渋谷ハロウィン」なる若者の暴動は、死を恐れず、贈与をせずに富を滞留させている現代社会のエスタブリッシュメントに対する死者の怒りを若者が代理表象しているのではないかという一つの見方である。 これはいささか都合のよすぎる解釈かもしれない。渋谷ハロウィンで仮装し、酒をのみ暴れまわる人々は、人々が集まり、愚行の限りを尽くして、社会外部の復権と贈与の復興をさせようとしているわけでない。しかし、本書を読んで、サンタクロースの召喚までの道のりを概観するに、そのような行き過ぎた発想も看過されても良いものではないかと思い、ここに記すのである。

Posted byブクログ

2017/12/28

中沢新一:序文「じつにクリスマスは、キリスト教世界の生んだ習俗の世界的ヒット作と言っていい。」と、のっけから惹かれるあおり。 冬至は、現世の生者の世界とあの世、死者の世界のとの境界の力が薄まり、境目が弱くなるという伝承は日本でいうお盆のようなものだろうか。「死」を身近に感じつつ、...

中沢新一:序文「じつにクリスマスは、キリスト教世界の生んだ習俗の世界的ヒット作と言っていい。」と、のっけから惹かれるあおり。 冬至は、現世の生者の世界とあの世、死者の世界のとの境界の力が薄まり、境目が弱くなるという伝承は日本でいうお盆のようなものだろうか。「死」を身近に感じつつ、それを遠ざけるため、境界の弱まる冬至に戻ってくる死者たちが、自分たちを連れていくことなく、死者の世界に機嫌よく戻ってくれるために贈り物をしたのだと、この本では紹介されている。ハロウィーンもその一つか? こうして死者たちが引き上げていき、冬至に最も弱まった(とされる)太陽が死に、生まれ変わり、新年となり春、夏に季節が向かっていくという考えは、世界のあちらこちらでみられるようだ。 サンタクロースが広がることは、クリスマスの拡大を補する役割を果たすことになり、火あぶりにされる必要はないように感じたのだけれど、新しく広まったサンタクロースのイメージが従来のキリストの生誕祭としての宗教的イベントとは離れていることが一つには問題だったようだ。加えて、この本でストロースは、現代のクリスマスのプレゼント、贈答とイベントは、かっての原始宗教時に行われていた死者への贈答、祭りでの異集団の一体感、高揚感と類似性がある、心の中の異教的傾向への断罪が、サンタクロースの火あぶりだったとしている。 この辺りは、若干十分理解しきれないところもあったのだが前書きと解説を書いている中沢新一先生が、『NHK100分de名著 レヴィ=ストロース 野生の思考』に寄せている解説の方が、その関係が理解しやすかった。

Posted byブクログ

2017/08/09

確かに、キリストの降誕を冬至の日近くにしたというのが、死と再生の物語に好都合であったということ説には、納得させられること大であった。 冬至とキリストの降誕のことはよくわかったが、南半球ではどう扱われていたのだろう。たぶん、ローマ教会がキリストの降誕を12月に設定した当時は、南半球...

確かに、キリストの降誕を冬至の日近くにしたというのが、死と再生の物語に好都合であったということ説には、納得させられること大であった。 冬至とキリストの降誕のことはよくわかったが、南半球ではどう扱われていたのだろう。たぶん、ローマ教会がキリストの降誕を12月に設定した当時は、南半球は世界ではなかったということなのであろう。

Posted byブクログ

2017/06/18

借りたもの。 サンタクロースの民俗学。 キャッチ―なタイトルは導入で、サンタクロースが火あぶりにされた理由――サンタクロースとは、キリスト教ならぬ異教の習慣であること――を、その起源を辿る研究本。 それは生者と死者の契約であるという。まるで日本のお盆の風習に近い。 子供(これ...

借りたもの。 サンタクロースの民俗学。 キャッチ―なタイトルは導入で、サンタクロースが火あぶりにされた理由――サンタクロースとは、キリスト教ならぬ異教の習慣であること――を、その起源を辿る研究本。 それは生者と死者の契約であるという。まるで日本のお盆の風習に近い。 子供(これは本来、大人であるためのイニシエーションを受けていない者たち、という広義な意味を含む)は異教において、生者の中に在りながら死者の化身と解釈される。 彼らにプレゼントを贈るという風習は、等価交換ではない。一種の供儀である。 異教の「贈与霊」と呼ばれた死者は遠方よりやってくる(マレビト)聖ニコラウスという聖人の姿を借りるようになった。 「異教は死者を崇拝して祈る。だが、キリスト教は死者のために祈る」 にもかかわらず、キリスト教がクリスマスを行う――そもそも過去の宗教の祭りを取り入れている――時点で矛盾をはらんでいたこと、人間は死者との交流をする儀礼を手放すことができなかったことが伺える。 よく言われる商業主義や、キリスト降誕時の三王礼拝とその贈り物が謂れとか、それとは全く異なる視点からの解釈が非常に斬新で、キリスト教が席巻し失われたと思っていたかつての宗教の匂いが失われていない(失えない)事がとても興味深い。

Posted byブクログ

2017/02/12

1952年に発表された論文。 冬至の頃の生命エネルギーの低下、死者の力の隆盛に対して、贈与のエネルギーをもってして鎮めようして行われた祭りが古来からの連綿と続いてきた。 その異教的パワーをそぎ落とそうとしてキリスト教はこの祭りをキリストの生誕祭、クリスマスとして吸収しようとした。...

1952年に発表された論文。 冬至の頃の生命エネルギーの低下、死者の力の隆盛に対して、贈与のエネルギーをもってして鎮めようして行われた祭りが古来からの連綿と続いてきた。 その異教的パワーをそぎ落とそうとしてキリスト教はこの祭りをキリストの生誕祭、クリスマスとして吸収しようとした。 ところがそのプリミティブパワーがアメリカさんの持ち込んだ資本主義のおかげで息を吹き返してしまった。 それに対抗しようとした教会がサンタクロースを1951年、ディジョンの大聖堂広場で火炙りにする。 ところが、実はその行為自体が、まさに連綿と続く贈与のパワーのシナリオを補強し、完結させることになっている皮肉。 レヴィ=ストロースの本文は半分ほど、残りは中沢さんの解説。

Posted byブクログ