丸刈りにされた女たち の商品レビュー
もっと難しく書いてあると覚悟していたのだが、意外と読みやすかった。 第二次世界大戦時、ドイツの占領から解放されたフランスで、ドイツ人と仲良くしていたからと丸刈りにされた女性たちがいた。何かで見聞きしたのだろう、それも1回ではない頻度で。こういうことがあったことは既に知っていた。で...
もっと難しく書いてあると覚悟していたのだが、意外と読みやすかった。 第二次世界大戦時、ドイツの占領から解放されたフランスで、ドイツ人と仲良くしていたからと丸刈りにされた女性たちがいた。何かで見聞きしたのだろう、それも1回ではない頻度で。こういうことがあったことは既に知っていた。でも、そういうこともあるだろうなという程度のとらえ方だった。 だが、このことは女性だけに対する差別的な扱いなのだ。男性でこれに比するような罰があるとすれば何が当てはまるのだろう。簡単に思い浮かばないと思う。つまりはミソジニー的な「おれたちの国の女(おれたちの女)のくせに、よその国の男と仲よくしやがった」というような感情のはけ口にされたといえる。しかも、多くが公的に行われたものではなく、各地方や町村の正義漢ぶった輩が私刑的に行ったもののようだ。間男された亭主が、誘惑した間男に制裁を加えるのでなく妻をいたぶるようなものだし、中世の魔女裁判とも似たようなところがあるだろうか。 こういう面で社会的に女性は不安定で、自分の意思が通らない扱いをされることがある。この本では70年ほど前のことを話題にしているけれど、こういったことは今でもあるだろう。たとえばことし、甲子園の高校野球で女子マネジャーがグラウンドに入れないことがメディアや巷間の話題になったが、入れない理由(のひとつ?)が、男子と体力差のある女子がけがをしないための配慮だとか。そういった男性側の女性に対する過保護意識が世の中にはまだまだあると思う。書中で体験を語った女性の父親は、町の人々に先んじてわが娘を非難したり贖罪を求めたりする。それは村八分を恐れる小心な男の姿であり、自分の国の女性を丸刈りにしたがる男性たちの縮図そのものだ。こうした事象に対しては、男性のゆがんだ愛情や保護意識の表れと認識し、起こらないよう、起こさないようもっと敏感になるべきだ。 話は換わって、著者は2人の「丸刈りにされた女たち」と会っている。今から10年くらい前の頃だ。2人のうち1人は「不幸な人生を歩むよう定められているの」と語り、もう1人は、大戦後に一度は結婚したドイツ兵の恋人と短期のうちに別れている。ついつい、戦後に再び出会い、その後は添い遂げたという物語を期待してしまうが、そうはいかないのが現実のようでもある。 ただ、不幸な人生だというセシルの生き方は、そこまで不幸ではない気もしてしまう。戦後、自立して複数の国で仕事に就き、後には、すでに互いに別の人生を歩んではいるものの、かつての恋人と家族も交えたつき合いがあったのだから。というのは、かつての恋人どうしに生まれた新たな関係性を美しいものとしてとらえようとする、セシルの気持ちを無視した自分の勝手なのだろうが。 そして、丸刈りにされたのは「ドイツ兵の恋人」だけではないことも認識しておかないといけない。著者が「(丸刈りにされた経験を)語るための条件は、自分は無実で不当な暴力を受けたと信じていることである。ドイツ人に恋をしただけという理由がその最たるものである。逆に、最も語ることが難しいのは、レジスタンスの情報を売ったり、ユダヤ人の居場所を密告したりした、個人を死に至らしめる場合もあったような行動をとった人だろう」と述べるような人たちもいるだろうが、そのような女性は丸刈りに値するような罪なのだろうか。また、ドイツ兵たちのために接収された施設で給仕や洗濯係として働いた女性が非難された例もあるとか。(私はおそらくいると思っている)日本人従軍慰安婦が声を上げ(られ)ないのも、こうした事象の背景にある人々の感情と底を一つにしている気がするのだ。
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