翁童論 の商品レビュー
文明社会において周辺的な存在としてあつかわれている子どもと老人に注目し、現代人が忘れてしまっている生と死についての問いを体現している存在としての彼等の存在のあり方について自由に考察を展開している本です。 宗教学や民俗学の諸成果を参照しながら、著者自身の「翁童論」のおおまかな見取...
文明社会において周辺的な存在としてあつかわれている子どもと老人に注目し、現代人が忘れてしまっている生と死についての問いを体現している存在としての彼等の存在のあり方について自由に考察を展開している本です。 宗教学や民俗学の諸成果を参照しながら、著者自身の「翁童論」のおおまかな見取り図が描かれています。さらに、三島由紀夫や稲垣足穂、南方熊楠、あるいはC・S・ルイスの『ナルニア国物語』や宮崎駿の『風の谷のナウシカ』、大友克洋の『AKIRA』などの作品についての考察をおこないつつ、著者の翁童論のもつ可能性が敷衍されています。 そして著者は、翁童的存在としてのスサノヲについての考察をおこない、荒魂と和魂の両極性が統合されていることを明らかにしようと試みています。ここで著者は、この両極性を「両義性」ではなく「統合性」としてとらえることに努力を傾けていることが注目されます。とくに著者は、山口昌男がその「中心と周縁」理論にもとづいて日本神話の構造を理解しようとしていることを批判し、「神話は世界を説明するための単なる知の一装置なのではなく、神話は世界を根拠づける知の全体性と力そのものなのだ」と主張しています。 ただわたくし自身は、こうした著者の山口批判に首肯できないものを感じています。著者の立場は、神話の世界を生成していく動性に内在するような視点から神話の構造を語ろうとしていますが、こうした立場はある種の生命論やロマン主義に見られるような一元論に陥ってしまう危険性を孕んでいます。たとえば著者は折口信夫が「神話的想像力の内側に入り込み、神話を「存在の家」、「存在の妣の国」として生きぬこうとした類稀れなる人物」だと評していますが、ことばは「存在の家」であると語ったハイデガーの存在の思索は、こうした形而上学的一元論を厳しくしりぞけていました。 あるいは、著者はみずからの童翁論を語る際に、「十牛図」の第十図である「入鄽垂手」に言及していますが、わたくしの見るところ、著者の議論には大乗仏教における自然への還帰が第八図である「人牛倶忘」の絶対否定をくぐり抜けたところにあることの意味を十全に理解していないのではないかという疑いをぬぐうことができません。
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