築地の記憶 の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
セリ取引では数量や輸送コストなどは考慮されない。たくさん買えば安くなるとか、遠くから来た荷が優遇されることは一切なく、単純に需給における商品価値のみが評価される。いくら商品価値が高くても、供給量が大きければ、生産コストに見合った価格がつかないこともあるし、逆に需要の方が高ければ、生産こすよを大きく上回る価格も生まれる。 昭和46(1971)年制定の卸売市場法ではセリ原則が大きく緩和される。流通の変化に迎合するように市場機能を変化させたものが、つまり、現在の築地市場なのだ。中央卸売市場の基本理念を踏襲しつつも、現在の流通システムと折り合いをつける形で運営されていて、セリ取引も全品ではなく、マグロやエビ、一部の生成品などに限定される。これら高級魚の値づけには高いリスクを伴うから、やはりセリ取引が効率的なのだ。この領域では「築地プライス」がいまだに健在であるといえるが、価格形成において現在の築地市場はかつての存在感が失われた感がある。(pp.40-41) 河岸では毎日のように「大変だぁ」と大騒ぎしている。もうあらゆることに「大変だぁ」というのだが、本当に大変なことはまずないと言っていい。河岸の人は事件が大好きだ。実際、河岸では小さな「事件」は毎日ひっきりなしに起こる。(中略)「大変だぁ〜!」と、とりあえず大騒ぎして、一分後には何が大変だったのか誰も覚えていない。これが河岸の日常だ。(p.121) ほとんどの魚が死ぬために生まれる。もの悲しさを感じずにはいられない。だが、実はこれが自然の理に適っていることなのだ。なぜなら、少しでも生存率が上がると、海は魚で一杯になってしまうから。そして結局は絶滅に向かう。たとえば、サンマの生存率が一割上がったとすると、およそ200年で世界中の海にみっしりサンマをしきつめても、まだあふれるという状況におちいってしまうらしい。 河岸にいた人間のいうことではないのだが、魚(に限らずどんな食べ物も)を食べるのに、余計なことを考えすぎる気がする。それがどこ産だとか、栄養価がどうだ、なんてことは、本当はどうでもいい。それよりも、今食べているこの魚が、ちょっと前まで泳いでいた、紛れもない生き物だということが何より重要に思う。食物連鎖ありがたやと、少しだけ謙虚な気持ちになって、それを身体にとり入れるとき、自分もまた自然に生かされている存在にちがいないと気づかされるのだ。(pp.174-175) 魚河岸に出る魚は、どんなに美しくとも食べられるためだけにある。しかも新鮮で姿形の良いものほど、先に売れて切られたり焼かれたりするのだ。河岸を歩くと、そんな当たり前のことに気づかされる。 まな板の上に魚をのせると職人たちの表情は引き締まる。売る人も買う人も魚の状態を瞬時に見極め、値段に納得すれば交渉成立だ。そこにはまだコンピューターの入る余地はなさそうで、世界に類を見ない築地市場の特徴があると思う。(p.210)
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