桶狭間伝説の嘘 の商品レビュー
最近書店を見ていた楽しみにしているのは、過去の歴史上の事件の真相と思われる内容の本が出てきたことです。私の興味がそちらに向いているため感度が良いのかもしれませんが、いずれにせよ私にとっては嬉しいことです。 戦国時代の趨勢を決めたとまで思っている「桶狭間の戦い」について、昔から疑...
最近書店を見ていた楽しみにしているのは、過去の歴史上の事件の真相と思われる内容の本が出てきたことです。私の興味がそちらに向いているため感度が良いのかもしれませんが、いずれにせよ私にとっては嬉しいことです。 戦国時代の趨勢を決めたとまで思っている「桶狭間の戦い」について、昔から疑問が一杯ありました。この本は桶狭間の戦いが行われたころの、今川義元と織田信長の勢力範囲(領地)を詳細に検討した上で、更に今川義元の軍隊のいわゆる戦闘部隊が何人いたのかの推定を行っています。 誰かの本に、桶狭間の戦いは、甲子園でいえば1回戦が事実上の決勝戦である、と書かれていましたが、両者は互角の勢力だった考え方にも納得できました。 その上で、織田信長の取った戦略は、味方を見殺しにしたと非難され兼ねない冷徹なものです。恐らく今川義元には同様の戦略が取れない事情もあったと思います。今回の本は織田信長サイドからのものですが、今川義元サイドからみた桶狭間についても興味を持ち続けていきたいと思いました。 以下は気になったポイントです。 ・信長は、甲斐の武田信玄に対して、臣下の礼をとらんばかりの媚態外交に終始、交戦中の越前朝倉氏に対しては降伏に近い和議(正親町天皇と将軍足利義明の協力)を持ちかけて急場をしのいでいる(p33、38) ・信玄の六女のお松を嫡男信忠の正室に迎える婚約を成立させている、後の関係悪化により成婚にはならなかった(p36) ・慶長三年蔵納目録では、尾張の石高は57万石、後世のものと比較して多めなのは、銭や畑地をも米換算して、国民総生産の算出に近いので(p55) ・尾張一国vs駿河・遠江・三河の合計は、57万vs69万石となる、信長は尾張のうち、3分の2以上の地域を領有していただろう(p57、74) ・信長の父信秀は、もともと下四郡(愛智、智多、海東、海西)の守護代である織田大和守家(織田信友)の三奉行の一人であった(p67) ・永禄3年当時、今川方が勢力を持っていたのは、海西郡と智多郡、さらには愛智郡と春日井郡の一部。智多郡は、鳴海・大高・沓掛城が今川方に属していたため遮断されたのだろう(p81) ・今川が尾張において兵員をかり集められた土地は、春日井郡の品野城と海西郡くらい。智多郡は信長、水野信元、久松俊勝らの連携により織田方の勢力圏に徐々に復しつつあった(p92) ・桶狭間の役を引き起こしたのは、今川義元ではなく、信長と言う可能性もある(p93) ・信長の勢力圏は、尾張の4分の3で、30万石以上、今川義元の領土は65万石程度であろう、織田16万石vs今川100万石の図式は明らかに再検討が求められる(p93) ・兵力は、今川が総勢で1万6千(65万石ベース)であるが、6千は本国の守備兵に残しただろう、信長は8千(30万石ベース)で、各地に人数を残すと、決戦用手駒は5千となる、今川方の大高・鳴海城を圧迫するために5つの砦に割いたのは二千とすると、実戦用兵は三千となる(p98) ・今川方の主力部隊は、三河岡崎衆(家康)と、遠州掛川の朝比奈の両部隊でこれば精兵であった。義元麾下の駿河勢は、戦わざる軍団であった(p105) ・信長は相手に与える餌として、丸根砦・鷲津砦を選択した、これは松平隊と朝比奈隊をおびき寄せて、今川本隊から切り離すため(p114) ・義元本軍は、大高城に送り込んだ小荷駄隊等を除くと、5千を切っていた可能性がある(p119) ・信長が招来させたとされる戦国後期の経済変革は、実はそれ以前の段階ですでに準備がなされているものが殆ど、関所撤廃・楽市楽座令・撰銭令・検地等(p197) ・彼の部隊は、末端の兵士に至るまで当時の最新兵器で装備られていて、莫大な軍資金を必要とした。兵農分離のための経済的負担は凄かっただろう(p198) ・三方が原において家康があえて決戦を挑んだのも、織田の援兵3千を加えた一万弱の自軍で、武田1万5千に対抗できると思ったからであろう(p208) 2016年5月3日作成
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