現代思想史入門 の商品レビュー
160904 中央図書館 読みごたえがある。(分厚いが、語り口は練達の易しさ) でも、フーコーと、ドゥルーズ=ガタリに肩入れしすぎなのかな、と思ってしまう。思想を語るものは、自分が若い時にインパクトを受けて「ハマった」フレームを無自覚に受け入れてしまうのかもしれない。
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いつも行く本屋さんの新書コーナーに本書がダダンと置いてあり、つい購入。新書としては規格外の厚さに面食らいつつ、なんだかんだで読了。 まず一言、本書を額面通りに受けとってはないけない。「入門」とはうたっているが、それは「わかりやすい」とか「簡単」とかいう意味ではない。著者の意図す...
いつも行く本屋さんの新書コーナーに本書がダダンと置いてあり、つい購入。新書としては規格外の厚さに面食らいつつ、なんだかんだで読了。 まず一言、本書を額面通りに受けとってはないけない。「入門」とはうたっているが、それは「わかりやすい」とか「簡単」とかいう意味ではない。著者の意図することは、閉ざされた哲学の秘密をこっそりと読者にみせることであり、現代思想の解説というよりは、著者の哲学批評の書物である。したがって、現代思想に明るくない読者にとって、本書は迷路さながら。これはわざとなのだろうか。読者に思考させるための? さて、印象にのこった箇所について。第五章、暴力をテーマにした文書中、フロムからドゥルーズとガタリの哲学までを連続して語った言葉に発見があった。 フロムといえば『自由からの逃走』であるが、彼はファシズムの誕生を自由にもとめた。人が孤立した先、「大衆はファシズムを欲望した」というのである。自由とファシズムの悪循環に別の道を見出すことはできないのか、「社会において主体とされること(社会的に正しく生きること)」の暴力、ここから逃走するために「逃走線」を引いてみせること、それがドゥルーズとガタリの哲学だったという。 大学生のころ、ドゥルーズとガタリの共著『千のプラトー』に挑戦した日々があった。正直に告白すると、この闘いは一週間もしないうちに敗北し、わずか数十頁をめくったきりそのままとなってしまった。 そもそもなぜ哲学専攻でもない当時のわたしが『千のプラトー』などに手を出したのかといえば、小阪修平さんが『そうだったのか現代思想』で引用しているドゥルーズとガタリのこんな言葉に魅了されたからだった。曰く、「精神分析なら止まりたまえ、きみの自我をもう一度見つけたまえ、という地点で、われわれは言うのだ。もっと遠くまで進みたまえ、・・・まだきみはきみの自我を十分に壊していない」。 わたしは、この言葉に「わたしらしくあること」以上の価値を感じた。檻から逃れる手は『千のプラトー』に書かれているのではないか、そう思った。結局挫折したけれど、わたしのこの予感は間違っていなかったかもしれないことが本書でも語られていた。いつか彼らの言わんとしていることがわかる日がくるだろうか。道のりは長そうだ。 総じて、著者は哲学の終焉を嘆いている。哲学の講義はほとんど哲学史に姿を変え、巷には哲学書が溢れ、わたしのような素人も侵入する始末。(スミマセン。)実益一辺倒の現代において哲学の居場所はなく、哲学はもっぱら知的でいたい人向けの散文集と化している。ニーチェの著者は解体され、使える言葉だけが盗まれている。そうだ、かく言う本書だって新書コーナーにずらりと並んでいた。購買意欲をそそるように。 思考せずとも今日も世界はまわる。ここから逃走線を引くこと、それも一手かもしれない。
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