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乃木坂46という「希望」 の商品レビュー

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2017/08/31

乃木坂46の魅力を、MVなどの映像作品の解釈をおこないながら考察した本です。 著者はまず、乃木坂46のMVにおいてストーリー性への志向が強く見られることを指摘し、そこに見出される「百合」的なイメージに「少女たちだけのユートピア」という意味を認めるとともに、それが「ままならぬ現実...

乃木坂46の魅力を、MVなどの映像作品の解釈をおこないながら考察した本です。 著者はまず、乃木坂46のMVにおいてストーリー性への志向が強く見られることを指摘し、そこに見出される「百合」的なイメージに「少女たちだけのユートピア」という意味を認めるとともに、それが「ままならぬ現実」と対置されていると論じます。しかし著者は、「少女たちだけのユートピア」を「ままならぬ現実」からの非難所として理解するのではなく、むしろ彼女たちが取り結ぶ「紐帯」が、「現実」の中へと歩み出していく「希望」につながっていることを指摘します。さらに著者は、映画『超能力研究部の3人』、舞台作品『じょしらく』、ドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』を考察の対象とすることで、彼女たちの作品において「虚構」と「現実」の二分法が溶け合っているという主張を展開します。 ところで、日本のサブカルチャー批評という分野においてもすでに相当な研究の蓄積があり、それらを無視してアイドルについて語ることはできません。しかし本書は、それらの先行研究を十分に踏まえていないように見えます。 東浩紀がセカイ系の作品などに見られるメタフィクション的な構造について考察をおこなったのに対し、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)で東に対する批判を展開し、その後AKB48の魅力について語っていることはよく知られていますが、宇野はけっしてAKB48の魅力を「虚構」に対置されるような「ガチ」に見出していたわけではありません。ポストモダン的な語り方をするならば、セカイ系的な想像力が「形式化」と特徴づけられるのに対して、宇野や濱野智史といった論者たちがAKB48に見ようとしたのは、彼女たちがメタフィクショナルな「形式化」を既定の枠組みとして言わばそれを利用することにおける「強度」を享受するような少女たちの振る舞いでした。 本書で主張される「現実」と「虚構」の二分法の解体という結論は、それなりに説得力のあるものですが、それを先行研究に対してどのように位置づけられるのかが明確にされていないために、読者としては「そういうものか」と聞いておく以外にどうしようもないと感じてしまいます。

Posted byブクログ