私を救ったオットー・ヴァイト ナチスとたたかった真実の記録 の商品レビュー
ホロコ-ストで生き残ったユダヤ人女性が、ナチスに立ち向かった盲目のドイツ人「オット-・ヴァイト」を讃え、その偉業を後世に伝えるため出版した絵本版『パパ・ヴァイト』に続く本書は、ベルリンの<オット-・ヴァイト盲人作業所博物館>に所蔵の豊富な歴史資料が併録されています。絵本版になかっ...
ホロコ-ストで生き残ったユダヤ人女性が、ナチスに立ち向かった盲目のドイツ人「オット-・ヴァイト」を讃え、その偉業を後世に伝えるため出版した絵本版『パパ・ヴァイト』に続く本書は、ベルリンの<オット-・ヴァイト盲人作業所博物館>に所蔵の豊富な歴史資料が併録されています。絵本版になかった恩人パパ・ヴァイトや著者インゲ・ドイチュクロ-ンの画像の数々は、時間と空間を越え現代社会に訴える真実の記録として強烈なインパクトで迫ってきます。
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「これは、ナチスという独裁政党が、力ずくで国を支配していた1933~1945にかけてのお話です。ナチスの政治体制に反対する人たち、ユダヤ教のように別の宗教を信じる人たちは、みな虐待を受けた時代でした。」p.9 この本の著者であるインゲが自分のユダヤ人というアイデンティティを知っ...
「これは、ナチスという独裁政党が、力ずくで国を支配していた1933~1945にかけてのお話です。ナチスの政治体制に反対する人たち、ユダヤ教のように別の宗教を信じる人たちは、みな虐待を受けた時代でした。」p.9 この本の著者であるインゲが自分のユダヤ人というアイデンティティを知ったのは、10歳の頃だった。そのことをインゲに話したのは彼女の母親だった。ドイツでユダヤ人の権利が無くなったことがきっかけだった。彼女の母は娘に「身を守ること」をいつも覚えているようにと話した。そしてその言葉は、生涯を通してインゲの大切なモットーになった。 ユダヤ人は公立や国立の学校へ通うことが禁止され、ユダヤ人の学校も閉鎖された。そのためインゲは高校卒業の資格を得られず、大学で勉強する道も閉ざされた。ユダヤ人は職業選択の自由も奪われた。つまり、自分で職場を探すことを禁じられていたということ。ナチスの管理のもとユダヤ人労働局が作られ、工場や施設での過酷な重労働を義務付けられていた。ユダヤ人には最低の給料しか与えられず、しかもユダヤ人税とジプシー税が天引きされていた。インゲがベルリン・ユダヤ人協会の職員を通してオットー・ヴァイトを知ったのは、1941年のことだった。ヴァイトはナチスの定めたあらゆる規則に反して、ユダヤ人従業員を親切に扱うので、会いに行ってみるようアドバイスされたのだ。 ヴァイトは作業所で作ったほうきやブラシをデパートで様々な品物と物々交換して、その品物を役人たちへのわいろに使った。インゲがヴァイトの作業所で働けるようになったのも、わいろのおかげだった。ユダヤ人にはほんのわずかな食料の配給しかなく、それもどんどん少なくなっていったので、このルートで手に入れた食料をユダヤ人従業員に分けることもあった。 「ユダヤ人の星」はユダヤ人でない人が、うっかりユダヤ人と接触しないための目印だった。 1941年に、ドイツのユダヤ人は公共の電車の席に座ることを禁止されていた。 1941年にはまだ、ユダヤ人もドイツ人医師の診察をうけることが許されていた。 「ナチスは、私たちを苦しめるために、ほとんど毎日、何か新しい規則を考え出していました。私たちは、いわゆる「ユダヤ人住宅」に引っ越さなければならず、そこでは一部屋に二人と決められました。ユダヤ人には所有物もなくなりました。生きている間、国から何もかも貸し出されることになり、衣服までもそうなりました。 夜8時から朝6時までは、家から一歩も出ないこと。 石けんは割りあてなし。 床屋や美容院に行くことは禁止。 洗濯物をクリーニングに出さないこと。 アイロンを含めて、電気製品は没収。 銀行口座は五千マルク以上になると閉鎖となりました。 またユダヤ人は、家で飼う動物を引き渡すか、殺さなければなりませんでした。これは、ユダヤ人の盲導犬利用者にとって、特につらいことでした。この規則すべてに従うことなど、ほとんどできません。ヴァイトさんも、どのように私たちをなぐさめて、助けたらよいのか、途方にくれてしまうことがよくありました。」p.47‐49 「実際、ヴァイトさんがしたことは、私たちの生活をただ助ける以上に大きなことでした。同じ側に立つことで、一かけらの自尊心を私たちに戻してくれたのです。ナチスは、最初から、数多くの禁止、規則によって、ユダヤ人をはずかしめて、下等な人間と定めました。そして、虫けらのように滅ぼさなければならない、と。食べ物もろくに与えず、死の危険と常に隣り合わせの重労働を強いて、ユダヤ人から人間性を奪いました。ヴァイトさんは、そんな時代に信じられないことをしたのです。私たちを人間として扱ったのですから。尊敬の念をもって私たちと接して、不安や苦しみを分かち合い、一緒に逃げ道について考えてくれました。それが自分のことであるかのように、行動しました。そこには、わざとらしさや、うわべだけのものは見られませんでした。」p.50 「隠れ家に潜んでから、すでに8か月、たちました。何もかも順調に進んでいるように見えたものです。隠れた人たちは状況になれてきました。それは何もない生活でした。本当のわが家をもたず、食糧配給権もなく、身分証明書もなく、「星」をつけることもありませんでした。」p.83 ユダヤ人を守るためにヴァイトが影で行ったことは、戦後理解されなかった。東ベルリンの新しい役人たちは長年にわたって、犯罪者として評判を落とすためにあらゆることをし続けた。それでもヴァイトはユダヤ人の児童施設やユダヤ人の老人たちのために支援を続けたが、ヴァイトに守られて生きのびた人たちはドイツを去り、彼は一人ぼっちだった。1947年12月22日、オットー・ヴァイトは心不全のため64歳で亡くなった。
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