神ながら意識 の商品レビュー
【普遍宗教としての神道】 『神ながら意識』矢加部幸彦著を読みながら、その「神ながらの道」を歩む感覚が、私が毎日しているあることとほとんど同じことに驚きを感じました。 それは、「ミサ」の祭儀です。 不思議な感覚ですが、日々預かっているミサが、神道の本を読むことでより一層深まった感覚...
【普遍宗教としての神道】 『神ながら意識』矢加部幸彦著を読みながら、その「神ながらの道」を歩む感覚が、私が毎日しているあることとほとんど同じことに驚きを感じました。 それは、「ミサ」の祭儀です。 不思議な感覚ですが、日々預かっているミサが、神道の本を読むことでより一層深まった感覚を覚えました。 神道では、神の造化の働きを産霊(ムスビ)とし、何もないところから自然発生するものとします。 「キリストの道」(教というのは訳語として誤りです)においても、神は天地万物を無から創造しつつ、決して遥か遠くにおられるのではなく、万物に行き渡って主宰していると考えますが、それは同時に深い愛の交わりであるとします。 宇宙即神也とする汎神論と神と被造物である宇宙は離れたものであるとする有神論は相反する概念のように思われがちですが、哲学者の西田幾多郎は、純粋経験の立場から両者を止揚します。 また、神道では人間は神の御霊を分け移された存在であるとしますが、聖書でも人間は神の霊の息吹を吹きかけられて生きる者であり、人は神の似姿なのだとします。 また、神道の普遍意識は共存共栄を説き、過度な滅私奉公や過度な個人主義の両者を是としません。 ヘーゲルが150年前に生み出した相互承認の原理を神道は弥栄の道として古代から既に見出していたというべきでしょう。 神道は、倫理道徳に絶対的な外部の基準を持たず、絶えず変化する森羅万象を前にして内なる神に問い、適宜相応に答えを見出していきますが、これも、まるで近代のモラルは良心に埋め込まれているとするカントと状況に応じて変化するとしたヘーゲルの議論のようです。 神道は、人間は神と同じく完全円満であるとしつつも、過ちを犯すことは当然のことであるとして、その度に禊ぎをして弥栄に戻るのが神ながらの道であるといいますが、これは、「はなはだ善きもの」として創造された人間であるが、原罪によって罪を犯す傾向性を持ってしまったゆえに、日々神の赦しに立ち返り、そこにさらに恵みが増す論理にも繋がります。 神道では、禍事すらも神とし感謝してきましたが、アウグスティヌスも悪の問題に際して、悪があるのはより大きな善に奉仕するため、と肯定します。 神道の神々は、神話だけでなく今も生き働き続けていますが、キリストの神も二千年前の記念だけでなく今現在も生きて働きます。 皇室の存在が続いてきたこと、また天皇陛下が、その時代に起こったことを全て自分の責任と受け止めて引き受け、全ての人のためにお祈りくださっていること。 八紘一宇とは断じて世界支配や覇権ではなく、一即多の世界、世界は皆一つの家族と言うことです。 カトリックにおいても、イエスから直接お願いされたペトロの後継者が二千年間途切れることなく、祈りをつないできました。 もちろん、歴史の中においては正反対の行いも成してきましたが、それでも「本物の祈り」は一度も途切れることも変質することもなく、現代に至るまで受け継がれています。 その聖なるバトンの一つがキリストが最期の食卓で制定されたミサ聖祭」です。 一言一句変わることなく、初代教会から現代まで受け継がれてきた一つの「道」ですが、 これが、神道の祓いと禊ぎとあまりにも似通っていることに驚きを禁じ得ませんでした。 罪穢れを祓い、魂を大元の源に戻して、再び再出発していくこと。 そして、神様への捧げ物をみんなで分かち合いをする「直会(なおらい)」ですが、ミサにおいては、今も生けるキリストご自身がパンになり、我々の食物となってくださるのであります。 キリスト教のルーツは当然ユダヤ教で兄のようなものですが、 どうも神道にも全く同じユダヤから流れてきた普遍的な意識の型のようなものがあるのではないかと思わざるを得ません。 キリスト教はラテン・ゲルマン化されたイエスとなんの関係もない一神教と思われがちですが、ミサにおいてユダヤの伝統ーイエスと初代教会の生命は確実に途切れることなく受け継がれています。 一見正反対のように見える両者ですが、根底においては同じ家族と思えるほど近いことを実感しています。
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