ワルシャワ蜂起 の商品レビュー
ワルシャワゲットー蜂起をユダヤ戦闘組織の司令官として戦って生き残ったイツハク・ツキェルマン(アンテク)がワルシャワ蜂起の開始を知ったのは、隠れ家を拠点に活動を続けていたときだった。ツキェルマンは蜂起開始3日目の8月3日、「司令官アンテク」の名で、生き残ったユダヤ人にポーランド人の...
ワルシャワゲットー蜂起をユダヤ戦闘組織の司令官として戦って生き残ったイツハク・ツキェルマン(アンテク)がワルシャワ蜂起の開始を知ったのは、隠れ家を拠点に活動を続けていたときだった。ツキェルマンは蜂起開始3日目の8月3日、「司令官アンテク」の名で、生き残ったユダヤ人にポーランド人の蜂起を支持し、戦闘員として参加するよう訴えた宣言を出した。宣言は人民軍の機関紙に掲載され、その後国内軍によっても地下組織全体に知らされた。ツキェルマンは蜂起開始の時の想いを「ドイツ人に対する復讐の瞬間がついに来た」と表現した。隠れ家にいたユダヤ人活動家たちはことごとく蜂起への参加に賛同した。そして「我々のアパートはたまちまち、蜂起のことを知り、参加したいと熱望する大勢の活動家を磁石のごとく惹きつける場所に変わった」という。1944年蜂起の性格についてツキェルマンも「ドイツに対する武装蜂起だったが、政治的にはよりはっきりとした反ロシア蜂起だった」と語っている。ワルシャワの解放は赤軍の手でなされ、「赤いワルシャワ」となる危険があったのである。ツキェルマンによるとワルシャワ蜂起で約25万人のポーランド人が殺された。ツキェルマンが組織したユダヤ戦闘組織の部隊は主に旧市街で戦った。ツキェルマンは蜂起開始当時、ワルシャワに生き残っていたユダヤ人は2万人と見積もっていて、数千人がポーランド人蜂起に加わって戦ったとしている 。
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