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ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼 の商品レビュー

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2017/01/09

この本のタイトルにある「ここまでわかった」とか「ほんとうは…」という文言を見ると、すぐに手に取ってしまう癖が抜けない私です。この本も途中まで読んでいたようですが、年末の大掃除で、本棚に積んであったのを発見しました。 偉大な父親を持った息子は苦労するものですが、有名な戦国大名を父...

この本のタイトルにある「ここまでわかった」とか「ほんとうは…」という文言を見ると、すぐに手に取ってしまう癖が抜けない私です。この本も途中まで読んでいたようですが、年末の大掃除で、本棚に積んであったのを発見しました。 偉大な父親を持った息子は苦労するものですが、有名な戦国大名を父にもった息子は例外なくプレッシャーを受けて生涯を過ごしたようですね。 名前だけは知っていましたが、何をしていたか殆ど知らなかった私は、この本を「きっかけ」にして、今後も豊臣秀頼について学んでいきたいと思いました。 以下は気になったポイントです。 ・関ヶ原の戦いから約2年半後の慶長8年2月、家康は征夷大将軍に任官した。当時は関白こそが天下人の官職で、家康は天下簒奪をカムフラージュするために、将軍職を選んだ(p12) ・豊臣政権下の家康の名字は、「羽柴」であり、本姓は、「豊臣」であった、将軍任官に備えて、徳川名字への復帰と、本姓源氏への再々改姓をしたことは、羽柴名字・本性豊臣の放棄を意味した(p13) ・大坂の陣の原因は、鐘銘問題ではなく、関白型公儀の可能性が根強く存続し、秀頼が堂々とした武将に成長したことになる。すでに諸大名は、将軍型公儀に組み込まれており、孤立した秀頼に勝算はなかった(p19) ・西国に豊臣系の諸大名が配置されたことは、東国を家康が支配し、西国を秀頼が支配するという考え方に基づいている(p22) ・七将による三成襲撃事件において、家康邸に逃げ込んだとの通説は、近年の研究によって、伏見城内の治部少丸に逃げ込んだものと修正された(p131) ・室町、足利将軍家では、征夷大将軍に任官してから、近衛大将に昇進するというのが、基本的な昇進スタイル、その先例は、足利義満。征夷大将軍は、概ね、五位相当、近衛大将は三位相当である。秀忠が、征夷大将軍の前に近衛大将に任官したことは、従来の形式と大きく異なる、徳川幕府は、近衛大将に「次期征夷大将軍候補」という新たな格付けをした(p152) ・偏諱については、主人が名乗り(諱)の一文字を家臣に与えることで、二文字のうち上の字の方が、下の字よりも名誉とされていた。ただし、秀忠の上の字は、秀吉から下賜された「秀」なのでそれを拡散させるわけにはいかないので「忠」を与えた(p158) ・命をかけて徳川政権に抵抗した盛親の思いは、子孫、そして坂本龍馬ら、長宗我部家の遺臣につながる人たちによって、幕末の土佐から出た新しい時代を切り開くエネルギーとなった(p193) ・大坂の陣の当時、織田家で命脈を保っていたのは、信長の兄弟では、弟の織田信包、子供では次男の信雄である(p253) 2017年1月9日作成

Posted byブクログ